都内在住

音楽を作って暮らしています。作られた時のお話を書いてます。

上京に失敗した事を忘れない為に作った曲の事

今週のお題「好きな街」

 

東京に出て来て音楽をやらせてもらって五年になる。上京前は大阪で四年程度やっていたので気付くともう人生の半数を音楽に使っている事になる。
「上京し音楽をやる」
文字にすればたかだか八文字だが当時はそう簡単なものではなかった。好きや嫌いで語れる程シンプルな感情を抱いていないが僕にとって重要すぎる街、東京に来た時の事を思い出してみる。
 
二十一歳になる四月の事だった。
学内は大学受験という鎖から解き放たれて浮かれる者もいれば、次なる一年に思いを馳せる者もいた。そしてとうとう将来と目を合わせていかなくてはいけない年齢の者もいた。
満開の桜の木に似つかわしくない肌寒い四月の風に肩を縮めながら僕は友人と下を向いて歩いていた。
このキャンパスの地面を踏みしめてもう三年目になる。
 
 「どうする?就活」
 
 今まで何も考えず二人で遊んでいた山田君が初めて口にした単語だった。
 
僕はちょうど音楽をやってしばらく経っていた頃だった。アルバムを二枚リリースし実費だったがツアーも行っていた。そして何事もなくそのまま音楽をやっていくような気がしていた。ずいぶん頭のあったかい二十一歳だったと思う。
 
 「うーん。まだ特に何も考えてない」
 
 その時はそう答えたが自分の心の底にしこりのような物が陣取っているような感覚がしばし拭えなかった。無意識ながらも大人になる自覚というものがあったのかもしれない。
 
寝ても覚めても拭えない感覚と数え切れない溜め息を止めるために僕はバンドメンバーに卒業したらどうするのかと聞く事にした。週に一度だけだった練習の後に口ぶり重たく持ち上がった話題だった。
同学年であるメンバー達も無視できない問題だったようで、長い議論となった。そしてその結果は「上京」だった。
「東京に行って一旗あげよう」
そんな大層なお題目ではなかったのだが何も考えていなかった僕にとって進路が決まった事は大きかった。航海中の船だった自分の壊れていた羅針盤の針が修復し進みだしたようだった。
しかし事態はそうそう上手くは転ばなかった。 
 
その二年後、いよいよ上京するという準備が整った頃にはリハーサルに来ないメンバーや資金繰りがうまくいかないというメンバーが出てきた。
 ロックバンドを潤沢に活動させるのはとても難しい。
 よくよく演奏力や歌唱力によるミックスアップが素晴らしい事を指して「この四人でなくてはダメ」「この四人が揃った事が奇跡」などという美談があるが、そのグレードに辿り着くまでには幾つもの障壁がある。
単純にバンド活動は楽器を持っていない時間の方が圧倒的に長く、その音楽以外の部分のクオリティが保てず壊れるバンドは無数にいる。そして僕がいた環境は紛れも無くそうだった。

 

内的な環境は整わずに酷くなる一方だった。二月の曇天が広がるある日
「メンバーを一名を切って上京しよう」という話が持ち上がった。リハーサルにも来ない人間と上京してまで音楽をやる必要もないという至極全うな理由だったが、この案は実行には移されなかった。
当人が「いや、自分も行く」と言いだしたのだった。そしてそれまでも有耶無耶に過ごしていた僕にそれをとめる資格はなかった。この手の話は道徳を持ち出すと随分複雑になるが、僕の中でも「人を見限る」という行為の後ろめたさは決して軽いものではなかった。
もしかしたら有耶無耶の持つぬるま湯の水温が心地良かったのかもしれない。四人で行く事になった僕らはネガティブな話をテーブルに上げるだけ上げて、宙ぶらりんのまま出航する事になった。

 

卒業のタイミングは僕らの現状をあざ笑うかのようにやってきた。学内にいても僕は周囲の重力を請け負ったかのように一人で重たい空気を纏っていて目障りだったと思う。
二年前と違い桜は視界に入らず、肌寒いだけの風に耐えながら物事の終わりをじっと待っていた。
 
三月に入り夜行バスの予約を取った。
 
当時はそこまで夜行バスが安くなく、四千百円もかかった。東京に足を運んだ事は幾度となくあったが片道だけの切符を購入したのは初めてだった。「帰れない」という現実が切っ先となり眉間に突きつけられているようで目眩がした。
 
アコースティックギターを抱えてバスで東京に向かった。引っ越しの荷物量を減らしたかったからだ。ギターは狭い座席をさらに狭くした。
遮光カーテンを閉め切ってとにかく眠った。眠ってしまいたかった。先行きや希望は見えなかった。過去は輝き未来は圧倒的に黒に染まっていた。

 

疑ったままの歌を手に東京にやってきたら春だった。

こんなにも春という季節を疎ましく思ったのは初めてだった。四月を闊歩する新入生や新学年という生き物を見る度に激しい焦燥にかられた。同様にバンドの環境も自分自身ももうどうすればいいか分からないレベルまで来ていた。そして自分は一人で寂しく誰も買わない歌を作っていればいいとさえ本気で思っていた。いや、思おうとしていた。仲間や未来が欲しかった。

 
上京して半年。メンバーの音楽以外のトラブルでバンドはあっさりと崩壊した。
 
東京のアルバイトの時給は大阪とは比べ物にならず、生活には全く困らなかった。それにも関わらず心は限界だった。
崩壊した事はどうでもよかったがそれでも自分の生き様や現状を思うと恥ずかしく穴が無くても何処かに入りたかった。得体のしれない後ろめたさが迫ってきていた。陰鬱な気分を追い払うように延々と自宅で歌を作っていた。歌う場所が無いのに心はどうしようもなく歌っていた。木造住宅の窓から差し込む光は浴びていると人生のツケが照らし出されそうで死にたくなった。
 
梅田を思い出していた。
今の梅田は新宿顔負けのメガステーションとなり西日本最大規模の摩天楼があるが、当時は工事が多く、まだ地方都市の様相が見られた。
そんな梅田の隣り駅に暮らしていた僕にとって
新宿の高層ビルや渋谷のスクランブル交差点は強い憧れの対象だった。
新宿特有の天空まで突き刺さる銀色のビルや、幾つかの巨大スクリーンから流れる音楽がぶつかり合い、街全体が叫んでいるような渋谷の喧騒に触れる事で何者かになれるような気がしていた。
 
 
その中の一角である住友ビルでアルバイトをしていた。働いてみても一時間に千三百円が貰えるだけだった。増えも減りもしない残高を見ても先々の不安が消える事は全く無かった。
具体的に削られているものは無いのに自分の中の何かが確実に減っていく自覚があった。その耐え難い苛立ちはいつしか虚無に変わってしまいそうだった。気付いた時には自己紹介をしても自分を表す相応しい言葉が一つもない人間になっていた。

日々を灰のように撒いていた。貴重な時間がどんどん減っていく事が分かった。
身が焼かれているように辛かった。窒息した器官を呼び戻す居場所が欲しかった。
 
そんな本当にどうしようも無い時に東京で人と出会った。
割合するがどうやらその人も困っていて僕はその人と音楽をやる事になった。
するとまた別の困った人と出会い、またその人ともやる事になった。そしてその日々は今日まで続いている。今の日々は東京が与えてくれた。

 

そんな事を歌にした。忘れたくもないので。