バンドを辞めるまでの話4
『小田急相模原』。ふりがなをふってもらうまでは読めなかった。
僕の家は各駅停車しか止まらないこの駅を降りて、二十分は歩かないと見えてこない。渋谷、新宿に出るまで一時間以上はかかる辺鄙な場所だった。そして住んでいた理由は伊藤の親戚の最寄り駅というだけだった。だからか解散が決まった時に最初に浮かんだのは、(あぁ、じゃあもうこの町に住む理由も無いんだな)という実に生活感のある考えだった。
自分で自分を引きずるように、小田急相模原駅に着いた。
何とか小田急線の始発には乗れたのだが、車内で随分と寝てしまっていた。乗り過ごしてしまったせいで、折り返して着く頃には七時を過ぎていた。
僕は抜け切らないアルコールに足を取られつつも自宅を目指していた。スーツを着た人々は、僕と反対に駅を目指していて、何となく申し訳ない気持ちになる。
歩道は国道沿いのため、ビュンビュンと車が通っている。合わせて不必要なぐらい駐車場の充実したファミレスとコンビニが立ち並んでいる。この国道沿いの直線を十五分は歩かないといけない。朝なのにこれまた不必要なぐらい、強烈な日差しだった。
足を踏み出すたびに汗が噴き出してくるが、気を抜くと涙がまた噴き出しそうになる。朝になると少しは落ち着いたものの、あの悔しさと悲しさ、情けなさは一晩で振り払うには粘度が強く、心に張り付いて取れなかった。
歩きながら、解散した事実を改めて頭の中で整理していた。また心臓がぎゅっとなったが、段々とこの感情の正体が、分かってきた。
僕はもう夢を目指せなくなったことが悲しかった。
大きい舞台に立ちたい。沢山CDを売りたい。売れっ子と言われたい、金持ちになりたい、大勢に影響を与えたい。音楽を志している人にとって、これらはすべて間違いではないと思う。もちろん僕もその一人だ。だが、根源的な心の声は少し違うようだった。
僕にとって「目指していること」は最も大切な部分だったらしい。
バンドを辞めるまでの話3
数時間もすると、何軒梯子したのかも分からない程に飲んでいた。
昼から続く雨はもう土砂降りになっていて、夜が大泣きしてるみたいだ。それなのに傘を買う気にもなれなかった。
歩くのも辛くなって、ぐしゃぐしゃになり、もうどうとでもなれと思った矢先、足がもつれ、その場にブッ倒れた。
小さな交差点だった。仰向けになると、真っ暗な空の奥がぐるぐる回っていて、無数の雨が顔面目掛けて降り注いだ。もう、死にたくなった。自分は何をやっても駄目な気がした。
右手から本当にズキリと音がしそうな痛みがする。痛みの先に目をやると、いつ叩き割ったのか記憶に無いガラスの破片が、指の付け根に突き刺さってキラキラと光っていた。
血を見ると余計に痛く感じる。「痛って……」思わず声が出た。死にたいくせに、切り傷の痛みには敏感という自分の中途半端さが嫌になった。
血が雨で流れて、アスファルトの黒と混じっていった。その色を見ているとどんどん悲しくなる。手を舐めると鉄の味がした。ため息と嗚咽が震えながら漏れた。
沢山の人が歩いているのに、誰にも僕が見えていないみたいだった。ここでも、僕は認識されていなかった。
僕らがこの街に来たことも、バンドが解散したことも、リハーサルスタジオさえ満員に出来なかったことも、誰も知らない。思えば思う程、悔しさと情けなさで死にたくなった。
しかし何故こんなにも悔しいのか悲しいのか。僕はそんなに歌で有名になりたかったのだろうか。それとも何も出来ずに終わってしまうのが、嫌だったのだろうか。それらすべてが間違いでもないし、正解でもない気がした。
考えると涯ての無い苦しさに心が絞め潰されそうだった。もういい、それよりも一刻も早く、轢き殺してもらいたかった。
涙で滲んで見える新宿の空はどこまでも真っ暗だった。
バンドを辞めるまでの話2
僕らのバンドが機能しなくなって、解散の結論を出すまでに、そう時間はかからなかった。伊藤は徐々にリハーサルにも遅れがちになり、ひどい時は来なかった。そして、帰りは誰よりも早く帰るようになった。
そして瞬く間に最後のライブの日がやってきた。望む人がいるわけでもない、形式上の解散ライブだ。ずっと雨が降っている嫌な日だった。
ライブハウスを借りて解散ライブをする人気も無かったので、小さなリハーサルスタジオを借りて、そこに十人程度のお客さんを入れた。そんなささやかな解散ライブで僕らのバンドは終わった。上京までしてきたのに、最後の最後、リハーサルスタジオすら満員に出来なかった。それが僕らのゴールだった。
「そんじゃ、おつかれ」伊藤からのあっさりすぎる程、あっさりとした別れの挨拶だった。
決定的な喧嘩別れでもないのに、もう一生会わないような気がした。これほどまでに人との絶縁を肌に感じた経験は初めてだった。胃袋が持ち上がるような、顎の下の柔らかな部分が硬くなるような、緊張と諦めを混ぜ合わせたみたいな感情だった。
「俺らはどうする?」菅さんが高木に言った。
「とりあえず、今日は帰るかな」
「そうすっか」最初から答えが分かっていたような菅さんの返答の早さだった。
僕らはまだ『これから』を見つけられていなかった。見つからないまま下北沢の夜に放り出されていた。心細さがどんどん膨らんで、不安と失望が僕をギリギリと包み込んでいた。でもそれは菅さんも高木も同じように見えた。
その夜はそれぞれの帰路に着くことにした。だが、僕はどうにもやりきれなくて、楽器をスタジオに預けて、新宿に一人で酒をあおりにいった。
着くまでも我慢しきれずにコンビニで酒を買って、満員の小田急線の中で飲んだ。とにかく、一刻も早く意識をあやふやにしたかった。そうしないと胸が千切れてしまいそうだった。
バンドを辞めるまでの話1
空が溶け落ちたような雨だった。街や空、将来すらも灰色に濡れてしまいそうだった。
新宿三丁目の外れにある交差点の真ん中で、ずぶ寝れになって僕は倒れていた。人が溢れるぐらい歩いているのに、僕に声をかける人は誰一人いなかった。
歓声のような雨音が鳴りまくる二〇一一年の夏。僕はこの東京で社会の数に数えられてすらいなかった。
「社会人バンドなんていっぱいいるし、就職しながらやるのもいいんじゃない?」下を向きながら伊藤が喋っている。
「上京してたった一年で考えることじゃないだろ」
「諦めるなら早い方がいいって」
入り口から一番遠い席に僕ら三人は座っていた。
歌舞伎町のど真ん中の、どこの同業も羨ましがりそうな立地の喫茶店だった。店内には客が僕達しかいない。そのおかげで幸か不幸か不景気な話がしやすいな、と間抜けな考えが浮かんでいた。自分も当事者のはずなのに、何故かぼんやりとした感覚で、僕は彼らのやりとりを聞いていた。
「菅さんになんて言えばいいんだよ」高木の声は普段よりも怒気を含んでいるように聞こえた。
「あの人は別にサポートで手伝ってくれてるだけだから、普通に『社会人になってやります』でいいだろ」
「メンバーになる前提でやってくれてるのに、それは普通に考えて駄目だろ」
お互いが「普通」と呼ぶ価値観がぶつかっては飛び交っていた。そんな話し合いが建設的に進むべくもなく、どこにも着陸出来ない話題が幾つも宙に浮いたまま、僕らは店を出た。
「じゃあ、俺バイトあるからここで」
仲違いしたわけでもないが、考え方が違う相手を尊重も出来ないといった、そんな声色だった。そう言ってギターケースを背負ったまま、足早に伊藤は駅に向かって行った。「もう終わりだな」と感じさせるには十分な足取りだった。
しばらくして、彼の姿が見えなくなった頃、高木がつぶやくように言った。
「これから、どうする?」
「どうもこうも、まぁもう無理だろ……でも、ちょっと一人で考えたいから、俺もここで行くわ」僕はそう言って、会話を切り上げた。
「わかった」そう言って高木も僕と逆方向に歩いて行った。高木は高木で色々な思いが錯綜しているように見えた。
『一人になりたい』などと聞こえのいい風に言ったが『これからどうする?』といざ聞かれて、僕は怖くなっていた。
これまでダラダラと何となくやってきたバンド活動だった。しかし、その甘さのツケは僕らの人生にしっかりと伸し掛かってきていた。そしてその責任を取る方法は全く分からなかった。
情けなくも思った。人々の日常に溢れている『これからどうする。今から飲みに行くか?』とはまるで違う意味合いの『これから』を僕らは確実に失っていた
四人でやっている曲の事
音楽を初めて、続いている事の理由を忘れないために作った曲の事
自信を失くすと自分を見失い、途方にくれる。
僕がその感覚に初めて滑り落ちたのは十四歳の頃だった。
中学生活も二年目になり、難易度が苛烈する勉強の反動か、教室内で横行するイジメまでが、つられて苛烈していた。
僕自身はイジメの被害者でも加害者でもなかったが、学校は面白くなかった。ロクに友達がいなかったので、基本的には学校は眠る場所になっていた。
教室は見たくもないものが氾濫し、罪状が無くても残忍さだけで捕まえといた方がいいんじゃないかと思う人間が腐るほどいた。もはや目を閉じている方が楽だった。
来る日も来る日も眠っていた。しかし、それを気に留めるクラスメイトもいなかった。誰とも言葉を交わさずに一日が終了する事がザラにあった。
もしも教室の扉が自動ドアなら開かないんじゃないかと思う程に、僕は教室で認識されていなかった。そんな仲間も敵もいない教室で眠り続け、一人苦しんでいた。
悪だと分かっているイジメに対しては何も出来ず、それどころか人と関わる事もしない毎日は、自分がこの世に存在している必要性を見いだせなかった。
思春期特有と言えばそれまでだが、本人にとって苦しいものは苦しい。十四歳の僕は確実に苦悩し、葛藤していた。
そんな中、意外にも僕は野球をやっていた。チームプレイが、何よりも大切なスポーツをやるような人格ではないにも関わらず、バットを握っていたのだ。
小さい頃は本当に野球が好きだった。地元神戸には将来、大リーグ史上に残る大記録を打ち立てるイチロー選手がいた。神戸では皆がイチローに憧れては野球を始めた。
しかし、中学生の部活動と化した野球はひどくつまらないものだった。好きなものがつまらなくなる時はいつもゆるやかに、自然に老衰していく。決定的な理由があって嫌になるわけではない。細かい事が積み重なり、段々と全てが嫌になるのだ。
ダウンスイング信者だった指導者の教員はホームランを打った生徒よりも、自分の提唱するスイングで、サードゴロを打つ生徒を可愛がっていた。その思想がどうという事ではないが、もしも自分がホームランを打った生徒だったら「これはたまらないな」と思っていただろう。
アッパースイングで凡退でもしたら、怒り狂いバットを投げつける監督はバットの扱い方よりも自分自身の心の扱い方に問題があった。
また、僕の中学は近隣にある二つの小学校の生徒が、自動的に進学してくる公立校だったので部員の数も多く、やりきれない派閥も多かった。それらは部活内にも如実に反映された。
そして勉強した後に練習に出ないと怒鳴られ、先輩からは理不尽な暴力が飛んできた。
一人の帰り道はいつも、怒りと憎しみで、全身が震え、悲しさと絶望感で、体内の血がすべて、沸騰するような感じがした。
そして少しずつ僕の中の野球熱は溶解していった。一方で好きなものさえ嫌いになってしまう自分が嫌だった。だが心はもう滑り出していたので、止まらなかった。
その年の夏はとても暑かった。毎日が耐えきれないほどの暑さと、耐えきれないほどの長さで構成されていた。
その日も練習を放り出して、まだ嫌がる肺にマイルドセブンを叩き込みながら下校していた。
未成年でもタバコが買える時代が、良いか悪いかは分からないが、少なくとも僕はこの禁じられた行為を一人で楽しむ事に、後ろ暗い高揚を覚えていた。
往々にして身体に悪いものは魂にとって嬉しいものが多い。そして読んでいた小説の主人公が未成年で嗜んでいたマイルドセブンはどうしようもなく格好良く見えた。
この主人公はマイルドセブン以外にもギターというアイコンを持っていた。情報統制された全体主義国家に生まれ、音楽の自由が禁止されている国で、ロックンロールをプレイする彼は僕の最初のロックスターだった。
分厚いその本を何度も読んでいるうちに、自分の中で、野球部や教室が全体主義国家の政府の悪者に見えてきた。思想にがんじがらめになり、思いやりを無くした人々は愚かしく見えた。
部からは次第にフェードアウトしていき、いつの間にか、顔を出す事は無くなった。
代償としての制裁だと言わんばかりに、野球部員からの嫌がらせや、陰口が降り注いだ。色んな病気だと言われた。鬱病でも中二病もいいが、いつも世の中は、人を簡単にひとまとめにして攻略した気になる。
野球人口を増やしたイチローは、神戸の少年達に夢も与えたが、影も与えたのかもしれない。
夏の終わり、毎日を無気力に過ごしていた僕は父親に、三万円のアコースティックギターを買ってもらった。YAMAHAのFS-325という、もう非売品になっている機種だ。
何度読み返したか分からないその本に感化され、自分でも何か行動を起こしたかったのかもしれない。
せめて自分の中に陣取る気持ち悪い塊を吐き出したかった。それには武器が必要だった。
好きなミュージシャンがいたわけではないのに、ギターを買う人は少ないと思う。僕は実在するヒーローではなく、小説の中にいる架空のヒーローに憧れてギターを手にした。
後に好きなミュージシャンは数え切れないほどに出来たが、始めた当初は殆どいなかった。そもそも音楽を好んで聴いたりはしていなかった。
完全にゼロから始まった音楽人生だった。
ひたすら自作で曲を作っていた。弾く曲も無いし、有名な練習曲は覚える手間が面倒だった。それにそもそも僕は何かを吐き出したくて、ギターを買ったのだ。そこに他人の曲は要らなかった。
音楽的な作法、ルールは何も分かっていないが、言葉は湧き水のように溢れていた。言いたかった事や、鬱屈していた感情はメロディに乗り、毎日ノートに吐き出された。
作品としては不出来だったと思う。それでもこの世に無い物を生み出し、記録していく行為は自分自身の存在を強く認識できた。
自分が生まれてなかったら、生まれなかった曲があるという事実は、嫌な事、つまらない事全てから乖離させてくれた。
リスナーが一人もいない音楽は、狭い部屋の一室で、猛烈なスピードで生産されていた。どんどん学校に行く日は減っていき、食事を摂る回数も減っていった。
もはや祈りを捧げるように書いていたと言っても過言ではなかった。書いたものが何かを叶え、日常ではない、どこかに連れて行ってくれると信じて書いていた。
ひたすら作っていると五十曲を越えたあたりから、作った曲が、似通ったものばかりである事に気付いた。端々は違うのだが、どうしても類似点が気になる。それは自分の中の音楽の引き出しが完全に底をついた瞬間だった。始めて一年弱でバックグラウンドが無いツケが回ってきたのだ。早くも僕は音楽家として焼け野原となった。
待っていても新たなメロディもサウンドも出てこないので、言葉が出てこない。魂の代謝が低下していく感覚がみぞおちの下辺りで、鈍く振動していた。吐き出せない時間は、息が詰まる心持ちだった。
新しい作曲能力を手に入れるという必要にかられて、アメリカやイギリスの音楽を聴いた。先人から技術を学ぼうと思ったのだ。今もマッカートニーが言った「オリジナリティは模倣から始まる」という言葉には強く同意している。
何から聴いてもかまわなかったのだが、小説の主人公もブルーススプリングスティーンを敬愛していたので、僕もそうする事にした。
ブックオフの中古コーナーで、スプリングスティーンとニールヤングとビートルズを買った。セール品で安かったのもあるが、小説の中で名前が登場したからだ。
古くさい音楽だろうな。ぐらいには思っていた。
しかしそれはもう、圧倒的だった。洗練されたメロディに、タフな演奏。七十年代、八十年代に作られた作品が、僕にとっては最新だった。
その日を皮切りにひたすらロックミュージックを聴き続けた。とても楽しかった。楽しいだけではない喜びに包まれた。
ロックミュージックを聴いていると、あの日の帰り道とは、全く違うエネルギーに満ち溢れた血の沸騰、興奮を感じられた。
なんというか離れた時代、離れた国にも、自分達の存在を、ただ音楽に燃やしていた男達が存在する事が、嬉しくなっていた。
僕はずっと一人で枯れた感覚を焼べるように歌を作っていた。だが、同じ感覚を持って、生きている人間が世界には確かにいた。
おこがましいが、この頃の僕は世界のロックスター達に仲間意識みたいなものが芽生えていた。
おかしな話だ。狭い部屋で、誰にも聴かれない音楽を作っていた極東の子供が、欧米のレジェンド達にフレンドシップを感じていたのである。でも、これはもう心から感じてしまっていたので、自分でもどうしようもなかった。
バンド名が印字されただけの真っ白なCDや、ロンドンの路地ですれ違う人のCD、赤ん坊がジャケットのCDが毎日ヘッドホンから流れた。その間だけはソングライターに寄り添ってもらっているようだった。
自分の苦しみを代弁するような歌がいくつもあった。
学校での苦痛な時間も、延々と歌で耳を塞いでいた。学校での一人ぼっちは変わらなかったが、もう寂しくはなかった。
ロックミュージックには不思議な力があった。パーティのフィーリングや、ポジティブの押し売りではない確かな温かさがある。それはリアルで悲しくて、鋭くて優しかった。
聴き終わると必ず彼らの真似でしかないような曲を書き、また別の音楽を聴いてというルーティンを繰り返していた。
この一人で音楽をやっていた時間はとても大切だった。技が知らず知らず、練られ、磨かれていった気がする。
同じ事をずっと繰り返す事は非合理的かもしれないが、大きな意味があると思っている。中学高校の五年間で二百曲は作ったと思う。
三年生になる頃、楽器店でとある女の子に出会い。アルバムを一枚貸す事になる。シンプルな青の背景に、やたらと居心地が悪そうにしている四人組のCDだ。
得た能力が先人から受け継いだ賜物である事を、忘れない為に歌を書いた。
【それでも弾こうテレキャスター Track-4】ブルーアルバム | QOOLAND 歌詞
普段独りぼっちの人に届いてほしいと思って作った曲の事
今週のお題「卒業」
人が孤独である事を教えてくれるものが幾つかある。一つは人混み、一つは夜、そしてもう一つは悲鳴が上がらないほど痛めてしまった心だ。
あの日もそうだった。
「おつかれさまでした!」
「じゃあとりあえず、持ち帰ってまた報告します!」
これ以上ない程に通常の別れの言葉。
誰が聞いてもまた次があると思う声色。
それが彼と交わした最後の言葉だった。明るく聞こえるその声を、もう少し注意深く聞いておけばよかった。
四月になった。今からちょうど一年前も四月だった。
季節はまだ温かくなったり寒くなったりを繰り返していた。それでも四月という月の魔力は相当なものらしく、街を行く人々は昨日より薄着になったように見える。
まるでどこかの権力者が「春に恥をかかせてはいけない」と言い出したのかと勘違いしそうになる。
それほど三月三十一日と四月一日には、随分と大きな隔たりがあるらしい。
かく言う僕も多分に漏れずまだまだ寒い中、コートをしまい薄着で出歩いていた。すぼめた肩が痛みを伴う肩こりを誘発した。
しかめっ面で歩く新宿には春一番が吹きこんでいた。相変わらず人混みにいる程、世の中から孤立しているように感じていた。
ガードレールに腰掛けながら、年が明けてからの三ヶ月を振り返っていた。
一、二、三月と年が明けてからの三ヶ月間、僕は何もしていなかった。正確に言えば何も出来なかった。
ライブ活動はやっていたのだが、制作においての物事が進まなかった。契約していたレコード会社との関係値は異様に悪く、予定を先送りにされ続けていた。
会議はいつも水を打ったようで、テーブルの上を言葉が潤滑に飛び交う様子などは殆ど見られなかった。楽しくやりたくない人間は一人もいないのに、楽しそうな人間が一人もいない重たい空間が宙に浮いていた。
意味もなく経過していく時間は月を跨ぐ度に、頭に鈍い痛みを与えていた。何かしたくても何もできないのは苦しかった。
そして状態は整わずに予定されていたDVDとシングルのリリースが発表された。
発表はされたものの、練り上げられた流れではなかった。
しかしもはや僕らに関わるあらゆる人が疲れていたように見えた。徐々にモメる事すら減っていった。
好転しない関係値は、汚泥したやり取りを繰り返した。だがシングルをリリースする夏は待ってはくれなかった。梶は整わずに船は出た。
レコーディングの工程が終了した時点でもう五月を過ぎていた。発売時期まで時間が無い。本来過密する必要の無い過密スケジュールの中、プロモーションビデオの撮影は行われた。
撮影のプロットや段取りを会社が仕切るか自分達が仕切るかという問題に直面した。
正直なところ、音以外の仕事は任せてしまいたかった。今までもそうしてきた。さらに付け加えると、気持ちの揃っていない人達と、一つの仕事を触る作業に僕はもう辟易していた。
だが信用していないのも事実で、やれるものなら自分達でやりたかった。どちらにせよ片方が全てをやらないといけないと思った。手を取り合う事はロクな結果にならないと思っていた。
最高の形とは言えないが、眼前に最悪の形があれば避けたいのは人情だった。
「君らの意志を尊重したい」
会社のスタッフから出た言葉だった。意外だった。なんと映像の仕切りをほぼやりたいようにやらせてもらった。それも会社が折れたという印象ではなく、任せてもらえたと言っても差し支えなかった。
監督のキャスティングから内容、イメージまで、余計に手を入れられる事はなかった。
この作品を会社と関わる最後の作品にするという話し合いは済んでいたので「最後ぐらい自由にさせてやろう」という気持ちがあったのかもしれない。
僕自身も一度は意志が、統一された芯の通った映像作品を残したかった。
最後の作品にして、ようやくそれが出来るかもしれないという期待が膨らんだ。
撮影は順調そのものだった。
監督によるカット割は練りこまれていたが、いざ撮るとシンプルで、難しいポイントも特別無い。二日に分けての撮影となったが、最終的に予定されていたスケジュールは完璧に進み、スタッフの手際が良く、文句の無い現場だった。
撮り終えた日は気分が良かった。その直後だった。監督と一切連絡がつかなくなったのは。
「監督は孤独だったのかもしれない」と考えられる程の余裕はなかった。
電話をかけた。SNSの動向を追った。アシスタントの職場にも行った。
まるで最初から存在しなかったかと思う程に、監督の痕跡は完全に消え失せた。彼のアシスタントは困り果てていた。
だがそれにも増して困り果てたのは僕らだった。キャスティングを自由に決めた分、自らで負債を負う責任もあると思った。苦しかった。
手に入りそうなものが、また直前で滑り落ちていく手触りに、寒気がした。
「もう何度目なんだ」と呟いたら降りかかった不幸が現実に起こり得てると実感できた。
また人間はよく出来ている。悲しい事が続くと何処かが壊れてしまわないように、しっかりと感情は鈍化する。 しばらく何も感じなくなった。
結局プロモーションビデオは完成せずに、シングルは発売日を迎えた。僕らは会社との関係値をゼロにした。
最後は誰が悪くて、何が悪いのかよく分からなかった。自分を始めとするそこにいた誰も正しくはない事だけは分かっていた。
夏になってしまっていた。例年に比べて暑かったかさえ、覚えていない夏だった。
アルバムを作る事にした。
もはや何かを失くすサイクルが、何かを作るサイクルを追い越してしまっていた気がした。
失態や喪失を、上書きしたかった。負のエネルギーを、新しいものに変えていきたかった。僕らは音楽に救いを求めていた。
そして作りすぎた音楽を外に出さないと、どうかなってしまいそうだった。
まだ聞き馴染みのなかったクラウドファンディングという手法を用いた制作に踏み入った。イギリスで生まれ、アメリカで発展した手法だ。
インターネットでファンに制作資金の支援を募り、支援額に合った特別なサービスをリターンするシステムだ。知った時はいかにもアメリカ人が好きそうな仕組みだと思った。
驚く事に支援額によってはレコーディングにコーラスとして参加する事や、練習スタジオに招かれる事もある。
この従来にはない程、ファンがバンドの内部に踏み込めるシステムに賭けてみる事にした。発売日を発表して与えるよりも、発売日にファンと向かっていくアルバムが必要だった。何より自分に必要だった。
様々なリターンに触れる中で最も影響を与えたものが「サシの弾き語り」だった。
ライブ会場で弾き語りをやれば当然だが、僕一人対複数人という状態になる。これを個室でマンツーマンでやるサービスを考えた。スタッフもマネージャーもいない完全なマンツーマンだ。
驚いたのがこれに申し込み、支援してくれた人達はあまりLIVE会場に来るような人ではなかった。勿論普段見る人もいたが、遠くから新幹線や飛行機で来てくれる人もいた。
十人にマンツーマンで歌を歌わせてもらった。その人達と直接話し、歌う事はとてつもなく大きい経験だった。
「会場には行けないけどCD全部持ってます。だからこうしてアルバムを作ってくれて本当に嬉しい」
という人がいた。冒頭に書いた年が明けてからの活動では何も届けられなかった事になる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
LIVE主義、現場主義の昨今の音楽シーンの事情において、珍しいスタンスの人かもしれない。僕も眼からウロコがバリバリ剥がれる感覚だった。
そしてその衝撃を超えて、本当に嬉しかった。歌う際に高揚し過ぎて、リズムが普段より荒れていた事を申し訳なく思う。
話した事を一生忘れられなそうな人もいた。
「死のうと思っていたところに生きる力を貰えました」
と言った人だった。
頭は撃ち抜かれたような衝撃に見舞われ、自分が動揺しているのか、感動しているのかすら分からなかった。
初めて会う人だった。
会場でも見かけた事のない人だが、ずっとCDを聴いてくれていたと話してくれた。その人と話していると救う事は出来ないけど、僕の作ってきたものが「手を貸す」ぐらいのものにはなれていた。
自分の音楽に、正面から返事を貰えた瞬間だった。僕が書いた言葉は、その人の中できちんと呼吸をしていた。
歌う事が難しくなる程の鼓動が鳴った。胸の奥がどこかに吸い込まれそうで、猛烈に痛くなった。声が出ずに何度も歌い出しをやり直した。「孤高の人」という曲を二回も歌った。
死のうと思っている人も、生きようと思っている人も社会には沢山いる。
社会という山で遭難しているか、登山しているかの違いだけだ。
しかし道を失えば、誰もがたちまち遭難する。生きたい日の合間に、死にたい日は突如挟まってくる。それは予告無く差し込まれ、突如降り注ぐ。
僕も獣道ばかり歩き、遭難と登山を繰り返してきた。
だが道を失くす度、死にかける度に、手を引いてくれる他のクライマー達が常に側にいてくれた。息が出来ない日には、酸素ボンベのバルブを開けるように音楽を作ってきた。
本当は一人ぼっちでない事を、千切れそうな痛覚の中で自覚してきた。淀み、病んだ心から生まれたものが明日の自分を癒していた。そしてそれは確実に他者に届いていた。
普段僕らは孤独だし、間違う。そして間違う度に死にたくなる。だが、そんな沸き立つような痛みがあるからこそ、隣りの存在や掛け替えのないものの価値を知る。
願わくば自分の音楽が響いた人達と、一緒に死にたい日を超えていきたい。
普段が独りなら、たまには誰かが他人じゃなくなる夜があってもいい。
監督にしてもそうだ。
いなくなった理由は独りだったからかは分からない。
それでも独りの人が今以上に独りにならないように、普段独りぼっちの人に届いてほしい。
そんな願いを込めて「一緒にやろう」「一緒にいよう」という意味合いのタイトルを付けて歌を作った。
https://www.youtube.com/watch?v=M9IXjSTskPU