四人でやっている曲の事
普段独りぼっちの人に届いてほしいと思って作った曲の事
今週のお題「卒業」
人が孤独である事を教えてくれるものが幾つかある。一つは人混み、一つは夜、そしてもう一つは悲鳴が上がらないほど痛めてしまった心だ。
あの日もそうだった。
「おつかれさまでした!」
「じゃあとりあえず、持ち帰ってまた報告します!」
これ以上ない程に通常の別れの言葉。
誰が聞いてもまた次があると思う声色。
それが彼と交わした最後の言葉だった。明るく聞こえるその声を、もう少し注意深く聞いておけばよかった。
四月になった。今からちょうど一年前も四月だった。
季節はまだ温かくなったり寒くなったりを繰り返していた。それでも四月という月の魔力は相当なものらしく、街を行く人々は昨日より薄着になったように見える。
まるでどこかの権力者が「春に恥をかかせてはいけない」と言い出したのかと勘違いしそうになる。
それほど三月三十一日と四月一日には、随分と大きな隔たりがあるらしい。
かく言う僕も多分に漏れずまだまだ寒い中、コートをしまい薄着で出歩いていた。すぼめた肩が痛みを伴う肩こりを誘発した。
しかめっ面で歩く新宿には春一番が吹きこんでいた。相変わらず人混みにいる程、世の中から孤立しているように感じていた。
ガードレールに腰掛けながら、年が明けてからの三ヶ月を振り返っていた。
一、二、三月と年が明けてからの三ヶ月間、僕は何もしていなかった。正確に言えば何も出来なかった。
ライブ活動はやっていたのだが、制作においての物事が進まなかった。契約していたレコード会社との関係値は異様に悪く、予定を先送りにされ続けていた。
会議はいつも水を打ったようで、テーブルの上を言葉が潤滑に飛び交う様子などは殆ど見られなかった。楽しくやりたくない人間は一人もいないのに、楽しそうな人間が一人もいない重たい空間が宙に浮いていた。
意味もなく経過していく時間は月を跨ぐ度に、頭に鈍い痛みを与えていた。何かしたくても何もできないのは苦しかった。
そして状態は整わずに予定されていたDVDとシングルのリリースが発表された。
発表はされたものの、練り上げられた流れではなかった。
しかしもはや僕らに関わるあらゆる人が疲れていたように見えた。徐々にモメる事すら減っていった。
好転しない関係値は、汚泥したやり取りを繰り返した。だがシングルをリリースする夏は待ってはくれなかった。梶は整わずに船は出た。
レコーディングの工程が終了した時点でもう五月を過ぎていた。発売時期まで時間が無い。本来過密する必要の無い過密スケジュールの中、プロモーションビデオの撮影は行われた。
撮影のプロットや段取りを会社が仕切るか自分達が仕切るかという問題に直面した。
正直なところ、音以外の仕事は任せてしまいたかった。今までもそうしてきた。さらに付け加えると、気持ちの揃っていない人達と、一つの仕事を触る作業に僕はもう辟易していた。
だが信用していないのも事実で、やれるものなら自分達でやりたかった。どちらにせよ片方が全てをやらないといけないと思った。手を取り合う事はロクな結果にならないと思っていた。
最高の形とは言えないが、眼前に最悪の形があれば避けたいのは人情だった。
「君らの意志を尊重したい」
会社のスタッフから出た言葉だった。意外だった。なんと映像の仕切りをほぼやりたいようにやらせてもらった。それも会社が折れたという印象ではなく、任せてもらえたと言っても差し支えなかった。
監督のキャスティングから内容、イメージまで、余計に手を入れられる事はなかった。
この作品を会社と関わる最後の作品にするという話し合いは済んでいたので「最後ぐらい自由にさせてやろう」という気持ちがあったのかもしれない。
僕自身も一度は意志が、統一された芯の通った映像作品を残したかった。
最後の作品にして、ようやくそれが出来るかもしれないという期待が膨らんだ。
撮影は順調そのものだった。
監督によるカット割は練りこまれていたが、いざ撮るとシンプルで、難しいポイントも特別無い。二日に分けての撮影となったが、最終的に予定されていたスケジュールは完璧に進み、スタッフの手際が良く、文句の無い現場だった。
撮り終えた日は気分が良かった。その直後だった。監督と一切連絡がつかなくなったのは。
「監督は孤独だったのかもしれない」と考えられる程の余裕はなかった。
電話をかけた。SNSの動向を追った。アシスタントの職場にも行った。
まるで最初から存在しなかったかと思う程に、監督の痕跡は完全に消え失せた。彼のアシスタントは困り果てていた。
だがそれにも増して困り果てたのは僕らだった。キャスティングを自由に決めた分、自らで負債を負う責任もあると思った。苦しかった。
手に入りそうなものが、また直前で滑り落ちていく手触りに、寒気がした。
「もう何度目なんだ」と呟いたら降りかかった不幸が現実に起こり得てると実感できた。
また人間はよく出来ている。悲しい事が続くと何処かが壊れてしまわないように、しっかりと感情は鈍化する。 しばらく何も感じなくなった。
結局プロモーションビデオは完成せずに、シングルは発売日を迎えた。僕らは会社との関係値をゼロにした。
最後は誰が悪くて、何が悪いのかよく分からなかった。自分を始めとするそこにいた誰も正しくはない事だけは分かっていた。
夏になってしまっていた。例年に比べて暑かったかさえ、覚えていない夏だった。
アルバムを作る事にした。
もはや何かを失くすサイクルが、何かを作るサイクルを追い越してしまっていた気がした。
失態や喪失を、上書きしたかった。負のエネルギーを、新しいものに変えていきたかった。僕らは音楽に救いを求めていた。
そして作りすぎた音楽を外に出さないと、どうかなってしまいそうだった。
まだ聞き馴染みのなかったクラウドファンディングという手法を用いた制作に踏み入った。イギリスで生まれ、アメリカで発展した手法だ。
インターネットでファンに制作資金の支援を募り、支援額に合った特別なサービスをリターンするシステムだ。知った時はいかにもアメリカ人が好きそうな仕組みだと思った。
驚く事に支援額によってはレコーディングにコーラスとして参加する事や、練習スタジオに招かれる事もある。
この従来にはない程、ファンがバンドの内部に踏み込めるシステムに賭けてみる事にした。発売日を発表して与えるよりも、発売日にファンと向かっていくアルバムが必要だった。何より自分に必要だった。
様々なリターンに触れる中で最も影響を与えたものが「サシの弾き語り」だった。
ライブ会場で弾き語りをやれば当然だが、僕一人対複数人という状態になる。これを個室でマンツーマンでやるサービスを考えた。スタッフもマネージャーもいない完全なマンツーマンだ。
驚いたのがこれに申し込み、支援してくれた人達はあまりLIVE会場に来るような人ではなかった。勿論普段見る人もいたが、遠くから新幹線や飛行機で来てくれる人もいた。
十人にマンツーマンで歌を歌わせてもらった。その人達と直接話し、歌う事はとてつもなく大きい経験だった。
「会場には行けないけどCD全部持ってます。だからこうしてアルバムを作ってくれて本当に嬉しい」
という人がいた。冒頭に書いた年が明けてからの活動では何も届けられなかった事になる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
LIVE主義、現場主義の昨今の音楽シーンの事情において、珍しいスタンスの人かもしれない。僕も眼からウロコがバリバリ剥がれる感覚だった。
そしてその衝撃を超えて、本当に嬉しかった。歌う際に高揚し過ぎて、リズムが普段より荒れていた事を申し訳なく思う。
話した事を一生忘れられなそうな人もいた。
「死のうと思っていたところに生きる力を貰えました」
と言った人だった。
頭は撃ち抜かれたような衝撃に見舞われ、自分が動揺しているのか、感動しているのかすら分からなかった。
初めて会う人だった。
会場でも見かけた事のない人だが、ずっとCDを聴いてくれていたと話してくれた。その人と話していると救う事は出来ないけど、僕の作ってきたものが「手を貸す」ぐらいのものにはなれていた。
自分の音楽に、正面から返事を貰えた瞬間だった。僕が書いた言葉は、その人の中できちんと呼吸をしていた。
歌う事が難しくなる程の鼓動が鳴った。胸の奥がどこかに吸い込まれそうで、猛烈に痛くなった。声が出ずに何度も歌い出しをやり直した。「孤高の人」という曲を二回も歌った。
死のうと思っている人も、生きようと思っている人も社会には沢山いる。
社会という山で遭難しているか、登山しているかの違いだけだ。
しかし道を失えば、誰もがたちまち遭難する。生きたい日の合間に、死にたい日は突如挟まってくる。それは予告無く差し込まれ、突如降り注ぐ。
僕も獣道ばかり歩き、遭難と登山を繰り返してきた。
だが道を失くす度、死にかける度に、手を引いてくれる他のクライマー達が常に側にいてくれた。息が出来ない日には、酸素ボンベのバルブを開けるように音楽を作ってきた。
本当は一人ぼっちでない事を、千切れそうな痛覚の中で自覚してきた。淀み、病んだ心から生まれたものが明日の自分を癒していた。そしてそれは確実に他者に届いていた。
普段僕らは孤独だし、間違う。そして間違う度に死にたくなる。だが、そんな沸き立つような痛みがあるからこそ、隣りの存在や掛け替えのないものの価値を知る。
願わくば自分の音楽が響いた人達と、一緒に死にたい日を超えていきたい。
普段が独りなら、たまには誰かが他人じゃなくなる夜があってもいい。
監督にしてもそうだ。
いなくなった理由は独りだったからかは分からない。
それでも独りの人が今以上に独りにならないように、普段独りぼっちの人に届いてほしい。
そんな願いを込めて「一緒にやろう」「一緒にいよう」という意味合いのタイトルを付けて歌を作った。
https://www.youtube.com/watch?v=M9IXjSTskPU
将来線路に飛び込まない為に作った曲の事
今週のお題「好きな街」
レールと車輪が断末魔のような音をあげ小田急線は緊急停止した。
「ただいま人身事故発生のため運行を見合わせております。お急ぎのところ大変申し訳ありません。」
アナウンスが鳴り響くと同時に乗客のため息と舌打ちが聞こえてきた。この人口密度のせいか彼らの落胆と苛立ちはあまりに鮮明に伝わった。
「すみません。人身事故がありまして、着くの遅れそうです。すみません」
目の前のサラリーマンとおぼしき中年は謝罪に始まり謝罪に終わる日本語をスマートフォンにぶつけている。座席のOLは事故発生前にしていた化粧のチェックを事故発生後も継続している。
十五分後電車は動きだし、彼らと共に新宿駅のホームに勢いよく吐き出された。
到着と同時に走る者もいれば駅員から遅延証明書を受け取り歩く者もいる。下車後ただただそれを見ていた。その風景を見つめていると不思議と足が前に出なかった。
押し寄せる人の波は僕の胸に次第にやり場の無い悲しさを放り込んで来た。その心臓が鷲掴みにされているような閉塞感は今までに味わった事のないものだった。
彼らの足は前に進んでいた。速度の違いはあれど誰もがそれぞれの目的地へとつま先を踏み出していた。それを見て僕は彼らが何かを守っている事に気付いた。一人で暮らす者は自分を。家族がいる者は家族を。夢がある者は夢を。皆何かしらを守るためにそれなりに我慢して折り合いをつけながら日々をやりくりしている。
しかし朝は彼らの体調や事情を汲む事は決してせず、ひたすらに日々を投げつけてくる。誰もが苦しさを誤魔化しながら逃げもせずに黙々とそれを打ち返している。
新宿駅は皆自分の事で精一杯だった。視界は自分の身を守るためだけの広さに集約されていた。そんな中、今日は運の悪いやつが一人亡くなっただけの話。そう言いたげな風景だった。
勿論今日だけではなくこの国の何処かで昨日も一昨日も誰かの命が散っている。
我が国には年間に三万人もの自殺者がいる。行方不明者を合わせると倍以上の数になる。残念だが先ほど起こった事は別段珍しい事ではないのが事実だ。
僕はそれでも立ち尽くしていた。
「今日死んだ人だって1年前まではこうして背筋を伸ばして新宿を歩いていたんじゃないだろうか」
そう思うと目の前で今日に立ち向かう新宿駅の人々が急に綱渡りをして毎日を繋いでいるように見えた。彼らがいつ落ちるかも分からない太さの綱を猛スピードで行き来しているような感覚だった。
年間三万人と書くと一言だ。しかし人が死んだ事象が365日だけで3万回あったと考えると陰鬱な気分は僕の臓物全域に散布された。彼らには家族もいたかもしれない。恋人がいたかもしれない。夢があったかもしれない。それこそ新宿駅の人々同様に何かしらを守ろうとして戦っていたかもしれない。普通に考えればそうでしかなかった。
人一人の人生が終了する。機械が壊れたのとは訳が違う。人生にはそれぞれの心があり、それぞれに関わった人々がいたはずだった。平凡なんてものは実際この世には皆無でありそれぞれのドラマが人の数だけ存在する。
だが心は破れさり散った。自分が乗っていた電車に飛び込んだ誰かの命が散った。
その出来事の重さに反比例して通常運転の新宿駅はあまりにリアリティが無かった。しばらくしても心は鈍く痛み、風邪のような耳鳴りはやまなかった。
人が多すぎる程多い東京の中でも死ぬ時は皆一人だ。当然だが悩みが悩みだけに気軽に相談などできなかったと思う。相談しても止められると分かっている悩みなど相談事として成り立っていない。人は皆一人で孤独に散っていく事を如実に表している事実だ。
では飛び込む時怖くなかっただろうか。今日までは守ってきた「何か」がもう二度と守れなくなった事は悔しくなかったのだろうか。守り続ける苦しさよりもたった一人で死の恐怖を選択した彼はどんな思いで死んでいったのだろうか。
そして誰が次の年の三万人になるかは本人にさえも分からない。目の前の走る人も歩く人もそれを見ている僕自身も綱から落ちる可能性がある。そう考えると胸が千切れそうになった。死にたくなかった。生きて今この時よりも人生を良くしたいと思っていた。
気付くとアルバイト先に行く時間はとうに過ぎ、スマートフォンにはフィーバーしたパチンコのように電話がかかってきていた。しかし動けなかった。僕はもうなんとなく働く気になれなかった。
ひたすら歩く事にした。
新宿から代々木上原。下北沢、下北沢、新百合ケ丘へと歩いた。歩いていると耳鳴りがやむ気がした。定期的に訪れる金属と金属を叩きつけたような踏切の音を手掛かりに線路沿いを歩いた。足の感覚が無くなるまで歩き続けた。
気付いたら空は次第に暗くなり、まるで僕の体調や事情を汲むかのように陽は落ちた。
その落陽は何もしたくない人間にとって唯一訪れる安息の瞬間を映像化したかのように見えた。
二十三歳になる上京したばかりの春の事だった。
その日の事を歌にしたら少し心が楽になった気がした。
誰でもいいわけじゃ無い事を忘れない為に作った曲の事
今週のお題「好きな街」
「もしも優勝するとなるとこちらから一年以内のリリースをお約束して頂かないといけませんがそちらは問題ありませんか?」
失くす事から目を背けない為に作った曲の事
大切なものを失う。という感覚を最初に知るのはいつだろうか。幼児の頃だろうか。それとももう少し成長した頃だろうか。思い出す事ができる者は稀だと思う。
海馬を掘り返すように記憶を探ってみると、鮮明に覚えている一日がある。小学一年の頃だ。飼っていたジャンガリアンハムスターが老衰で死んだ。
僕の住んでいた町は両親の実家と離れていた。さらに複合家族ではない家に育った僕にとって、祖父や祖母の死、仏壇などは身近な存在とは言えなかった。そんな僕にとって最初の命の消失を教えてくれたのは小さなペットだった。
この前まで所狭しと走り回っていたペットはある朝、全く動かずに横たわっていた。材木のように取り扱い易くなったその体は、昨日まで生命が宿っていたとは信じ難い程だった。
ただただ悲しかった。その独特の神経を握り込まれているような胸の痛みは今も覚えている。そして脈々と波打っていた生命が終了した現実を象徴するかのような横たわる小動物はひたすらに痛ましかった。
僕は幼い頃から大人に従順な子供ではなかった。もっと言えば大人に対し、侮りに近い感情を抱きながら毎日を垂れ流していた子供だった。その考えからかペットを失った悲しみを伝える事はしなかった。
この心の痛みは打算や面子で生きる親や教師に理解はできまいと決めつけていた。
その次の年だった。
遠く離れた場所で父方の祖父が息を引き取った。癌による病死の数え年は七十七だった。
前述した通り身近とは言えなかった祖父の死はどこかピンと来なかった。会った事も数度であったし、悲しもうにも悲しみようがなかった事を覚えている。
葬儀の日がやってきた。
まだ出来たばかりの明石海峡大橋を渡り、淡路島を越えていく。この半年後に震源地になるとは露知らず神戸の海は穏やかだった。
僕にとって人生で経験する初めての葬儀となった。
出席者達の身を包んでいた黒服が印象的だったが、葬式と言えばもっと厳粛なものかと思っていた。式が始まるまで大人達は祖父の生前の話を肴に、楽しそうに酒を酌み交わしていた。意外にも笑顔が飛び交い、特別消沈もしていない雰囲気は不謹慎にも見えた。
その光景を見てやはり大人は打算や面子で生きている薄情者だと思った。命の消失に寄せる灰暗い虚無感という感性を持つ自分とは違うと軽蔑した。繊細さは年齢と共に失われるのだと感じていた。
暫くして式が始まった。
経が読まれ木魚の音が大部屋にルーズに鳴り響いていた。話に聞いた事はあるが当然初めて見る儀式だった。だが特別興味をそそられる事も無く、一刻も早く帰りたい気持ちが大きくなっていた。
退屈によそ見ばかりしていただろうか。ふと横を見ると父親が泣いていた。父の涙を初めて見た。
釣られたか否か分からないが、気付けば他の大人達も泣いていた。大勢の大人が集まり泣いているという光景は衝撃だった。噛み締めるような嗚咽を上げる彼らに動揺した。そんな僕を置いてけぼりにするかのように式は進行した。
祖父を極楽浄土に誘う経は後半を迎えつつあった。ふすまから差し込む傾いた陽が綺麗だった。その日の全てを悼むように燃えていた。
帰りの車の中、ボンヤリと考えていた。
「大人はそう易々と悲しみを顔に出せないのかな」
冷徹、諦観主義、無感情、守銭奴。そんなイメージばかりだった。
しかし大人には大人の事情があって、泣きたくてもそう簡単に泣く事が出来ないのかもしれない。そう思うと大人が何となく仲間になったような気がした。
訪れる悲しみに彼らも納得をしているわけではない。だが後ろばかりを見ているわけにもいかない。僕は自分という小さな存在が、その営みの中で生かされている事を感覚的に知った。
それから十年後に僕は両親と暮らす事と住んでいた町を失う事になる。
様々な事情で実家に住めなくなり、大阪で一人で暮らさなくてはいけなくなった。この急遽訪れた両親や地元との離別は改めて「失くす」という出来事の無情さを思い知った。だが泣いているばかりでは生きてはいけない。
今僕が兼ね備えているもの全てに永遠は無い。
歌を作る事を延々と続けてきているが、いつ何時この能力を永遠に失うかは誰にも分からない。そして信じているものが側から離れていく事は今までも無数にあった。その度に心の強度が増せば良いのだが、そんな事はまるで無く、つらい事件に幾度となく僕は砕かれた。
もう人間をしばらくやっている。
段々と掴めるものが幾つも無い事が分かってきてしまった。あれもこれも手に入れる事は出来ない。
だが無情にもたった一つの事ですら抱きしめていくには生半可じゃない努力がいる。そしてそれすらも力及ばず運及ばず、手から滑り落ちる事がある。
しかし「いつか消えるから信じるのをやめる」「いつか失くすから護るのをやめる」という理屈に感情が導かれた事は一度もない。人は必ず失ってしまう。それを大人達は知っていた。それでも日々懸命に失くならないように足を前に運び、手は何かを掴もうとしていた。
僕も大人になった。 あの日泣きたくても簡単に泣かずに生きていた大人達になれただろうか。少しでも近づきたくて歌を作った。
【それでも弾こうテレキャスター Track-3】大切なお知らせ | QOOLAND 歌詞
護られている事を忘れない為に作った曲の事
頭上の雲まで茜色に染まったかと思うと、次の瞬間には夏の夕闇がにわかに濃く迫ってくる。そんな表現がよくよく似合う、時間の流れがやけに早い一日だった。もう二十年以上前の事だ。
道に座り込んでいた事を忘れない為に作った曲の事
今週のお題「好きな街」
貧乏だった。とてつもなく貧乏だった。
僕の生まれ育った街は神戸市営地下鉄の最果てにある「西神中央」という。ニュータウンを気取った田舎だ。
コンビニが出来たのは十七歳の時で、ビデオレンタルショップが出来たのは十八歳の時だった。二〇一六年現在未だにコンビニは二十四時間営業ではない。理由としては不良の溜まり場になるという、臭い物にひたすらフタをする排他的なものらしい。これもうわさ話で恐縮だが、狭い地域にありがちな短絡的な権力者がいたと後々聞いている。
僕はこの街で悠々自適に親の庇護のもと、高校三年生まで過ごしていた。十八年も生きていれば些細なトラブルはあったが逆に言えば大きなトラブルはなかった。
街に住む人達は殺人はしないが、イジメはするような気取った小金持ちが大多数だった。村八分があちこちに散乱していた。その親に育てられた子供が形成される学校の色もそんな色だった。
矢吹丈やリアムギャラガーをはじめとするアナーキーなヒーローに憧れていた僕にとって、フィクションの脇役のような性質を持つ地元の人達は好きではなかったが、大きくモメる事もなくそれなりに上手くやっていた。そんな僕の特別楽しくもないが、平穏で保障された暮らしはある日脆くも崩れさった。
その夜は自室でTVを見ていた。ブラウン管の中では駆け出しのお笑い芸人が大物司会者に気に入られようと、目をギラギラさせていた。
そんな時乾いた音のノックが聞こえた。鍵も備えていない無防備なドアが音を立てたのは久しぶりだった。
「話がある」
父だ。親子間で言葉を交わすのに丁寧すぎる宣告に背筋と部屋の空気が張り付いた。
昔からこういう空気は大の苦手だった。この空気が流れて人類史上ポジティブな話になった試しが無い。
「なに?」
平静を装ったが、自分自身の口から放たれた声のトーンは普段よりやけに高く聴こえた。
「この家無くなるから何とかしなさい」
想像の斜め上。いや、その更に上を行かれた気分だった。
「いやいやいや、困る!急に言われても困るっつーの」
慌てふためく僕を裏腹に
「まぁもう決まったから1人で暮らしてもらう」
大雑把に父は言っていた。脳内に変な音が鳴っていたようで父の声はよく聞こえていなかった。
未だに詳しく知らないのだが、諸々の仕事の事情らしく両親は僕を置いて神戸、ひいては関西圏を離れる事になった。
平穏という形の無いものは変わらない一日一日の連続が積み重なり作られる。だが積み上げられた平穏をなぎ倒すのは意外に容易らしい。そびえ立った積み木細工の下段を一気に抜くように僕の平穏は十八年で崩れさった。
四月。僕は阪急線の十三という街にいた。大阪には変わった読み方の駅が多いが、此処も多分に漏れずに『じゅうそう』と読む。関東圏の人はまず読めないだろうと思う。
大阪の心臓部である梅田駅の隣りである事や地元である神戸に直通出来る事、その割に家賃が安く進学先からも五駅ほどだった。よく駅の下見もせずに一人で暮らす城として決定した。今思うと安易だった。
この街には僕が今まで酸素や水のように無限に有ると思っていた『治安』というものが存在しなかった。代わりに往来での取っ組み合い、恐喝、盗み、器物損壊などが酸素や水のように豊富にあった。それまで十八年間ぬるま湯にいた僕からすると悪の華が咲き乱れる修羅場そのものだった。
ついでに道端で暮らす人間を見たのも初めての経験だった。その道で腕ずくで財布を盗られそうになったのも初めてだった。あんなに嫌っていた地元に帰りたかった。
春先は学校に友人も殆どおらず、とても寂しかった。狭いワンルームの部屋で聴いてくれる人のいない曲を毎日作っていた。たまに高校の頃の音楽仲間が来るぐらいだった。そんな基本的にはあまり明るく楽しくない新生活は少しずつ滑りだしていった。
セミは鳴いていないが、薄着をしても体調の心配をする必要もない。そんな気候になりはじめた頃。仲間達とバンド活動をする事になった。音楽活動は本当に楽しかった。友達に紹介されたドラマーがメンバーにいたのだが、本当に上手だった。
僕が高校生の時に一緒にやっていたメンバーとは雲泥の差だった。作った曲を上手なメンバーと爆音でプレイできる喜びが生き甲斐だった。その快感を頼りに身体を引きずって生きていた。
一人の暮らしは貧乏だった。
アルバイトの面接に幾度と無く落ち、辿り着いた職はピンクチラシを無差別に投函するという不名誉なものだった。貰える賃金は少なく、僕が生きていく事を前提に算出すると大きく足りなかった。まるで火星までの燃料で木星を目指しているようなものだった。
その日も地図を見てはアパートからアパートへと歩いていた。どういう基準かピンクチラシの配布先に指定があるのが面倒だった。
かつて人気があった事があるのだろうかと、疑いたくなるような裏道に足を踏み入れていた。建物の隙間から吹きこむ風が手に持っていた商売道具をパタパタと叩くのがうっとおしかった。チラシの音以外に聞こえるのは遠くで鳴る踏切音だけだった。嫌な静けさがこぼれ出しそうな通りだった。その最奥地にようやく目的のアパートを見つけた。
ポストへと歩を進め、投函していった。品の無いデザインに、品の無い内容が書かれた紙は、無機質な銀色の箱に一枚ずつ吸い込まれていった。そんな時だった。
「おい。勝手に何してる!」
横から急に怒鳴られたので心臓が跳ね上った。音のしない空間にいきなり飛び込んできた大声は僕に対する敵意に満ちていた。そちらを向くとアパートの管理人と思しき初老の男が立っていた。「睨みつける」という動詞がふさわしい眼光だった。
「ーーいや、チラシを………」
「何しとんねん!誰に許可もろてやっとんじゃ! 警察呼ぶぞ!」
自分がどれぐらい悪い事をしているのか認識出来なかった僕は何も言わずに駆け出した。反対の出口から通りへ飛び出した。
「おい!待てコラ!」
後ろから怒号が聴こえたが、振り切るように走った。走りながら心の中に苦いものが広がっていくのが分かり、気持ち悪くなった。通りの出口にたどり着いた時には息が出来なかった。全力疾走のせいだけではないように思えた。
金銭だけじゃなく、僕を形作ってきた色々な要素が失われていくのを感じていた。自分の体から悪の華の香りがした。
それからと言うもの場所や諸々、配布する際に決められたルールはあったのだが、次第に適当に数を誤魔化していた。自由出勤と違法の線上にあったポスティング業にモラルも忠誠心も無かった。何より僕はもうあの急降下して息が出来なくなるような不快感を味わいたくなかった。
バンド練習は町の安い貸しスタジオを使っていた。音も劣悪で設備も良くはなかった。あまり手入れがされていないマイクやスピーカーは、いつもキンキンとハウリングを起こしていた。
その日も気付けば練習というにはあまりに不真面目であり、遊びというにはあまりにも本格的な二時間が終わった。
「おつかれー」
「また来週」
待合室にメンバー達の声が行き交い、相場よりは安く、僕の預金には確実に痛恨である料金を支払いスタジオを出た。
帰り道はもう六月だというのに妙に薄暗かった。夜道に人の気配もしない。虫の羽音が街灯に巻き込まれ、その度に気味の悪い音が妙に響いていた。
下を向き歩いていた一瞬だった。
ワゴン車に引きずられたのかと錯覚するようなスピードで後ろから肩を掴まれた。そのまま一気にコンクリートに叩きつけられた。速く重たいストンピングが熱帯のスコールのように降り注ぎ、焼けるような痛みが襲ってきた。自分の身に何が起きたか分からなかった。
チラシの元締めの男だった。
配られた数が合わない事に気付いた男は怒り狂い、僕が一人のところを奇襲したのだった。男は僕を死ぬ直前まで殴りつけた。身長百九十センチを超える大男の拳の痛みと、めくれていない皮膚がめくれ、焦げはじめるかのような恐怖感に全身の自由が奪われた。
ボロボロになった僕に男は現金を要求し、二つ返事で預金の大半を吐き出す事になった。風前の灯火を続けていた残高は、動脈を破ったかのように引き落とされた。
大した額じゃない事実は心を安堵させたが、自分の命の価格と思うと情けなくて涙が出た。そして何故ここまで失うのかと悲しくなった。たった三ヶ月で人間の暮らしがこうまで変わっていくのかと信仰もしていない神を今さら呪った。
本当に平穏というものは一瞬で崩壊するものであっという間に人生史上最悪の貧乏生活が始まった。
アルバイトを失い、預金まで奪われたダメージはしっかりと身体と心を蝕んだ。自分の人生に歴史があるとすれば、この時期はありとあらゆる最下位を更新し続けていた。
なけなしの五百円は空腹を満たせない野菜には使えなかった。天秤に栄養と満腹感をかけた時、栄養を選択できる程賢くはなく、なるべく米を買う日々が続いた。野菜はヨモギを摘んで代用した。
夏の後半にはついに夜の路上で倒れた。栄養失調だった。ただれた消費者金融の看板と三日月が十三の夜に燦々と輝いていた。
心は泣くとその分歌うとはよく言ったもので、その頃はよくストリートライブをしていた。現在は綺麗に整備された十三の東口だが、当時は妙に雑多で警察の注意も一切無かった。
深夜の歓楽街特有の曖昧な灯が好きで、日付けが変わる頃から四時間ぐらい東口で歌うのが日課になっていた。
「失うものも無いし貧乏な自分にはお似合いだ」と半ば自棄になって始めた活動ではあったが僕の音楽人生において大切なターニングポイントになった。
道にあぐらをかいて道行く人に歌うなど気取ったあのニュータウンに住んでいた頃の自分からは想像もつかない絵面だった。だが妙にしっくり来た。それまで嫌いだった汚く野蛮な十三と、そこに住む人々が好きになっていったのはこの路上ライブがキッカケだった。
世の中には立ち上がった時の目線、歩いている時の速度では認識できないものが数多くある事を知った。
何故か座り込むと「目を凝らす」という動作が自然にできる。不思議と空を見上げる回数も多くなった。数分前には目に映らなかった小さな星が数え切れない程瞬いていた。
街には人がいて確実に回転していた。その忙しく高速に能動するものの本質は歩きながらでは到底見えなかった。
僕は未だに地方の知らない街に行くと、座ってその街と道を行く人々を見る。目を凝らさないと本質や美点まで辿り着けないものは山ほどある。この世には分かりやすくなくても良いものが沢山ある。
道で歌い続けた。
座り込み、街よりも遥かに低い視点で街を見つめながら歌った。最初はただ夜に向かって声をぶつけていただけだった。だが次第に街は僕を認識した。
道行く酔っ払いは千円札と一万円札をギターケースに放り込んだ。
ビザ切れのアジア人の女には五日続けて食事を奢ってもらった。
ギターを貸したニューハーフは僕の曲を僕より上手く弾いた。
「おー兄ちゃん。またやってんなー」
と言われるのが嬉しかった。
自分が作る歌にどうしても書かざるを得ないようなものが宿っていくのを感じていた。一人で暮らしてから音楽がますます好きになっていた。
それからも奪われた事もあったし騙された事もあった。傷の上に傷が重なっていくような理不尽も浴びた。
でも毎日は苦しかったが「その街に降り立たなければ良かった」と思った事は一度もない。何かを歌いながら泣いて笑って死にたいと思った。
人間を長くやっていると物事が見えなくなる時がある。そんな時、膝を抱え地面に座り込んでいたあの日を思い出す。だからたまに目を凝らすために座り込むようにしている。
これは続いている。紛れもなく続いていると確信するために歌にしている。
http://petitlyrics.com/lyrics/1038243