都内在住

音楽を作って暮らしています。作られた時のお話を書いてます。

普段独りぼっちの人に届いてほしいと思って作った曲の事

今週のお題「卒業」

 

人が孤独である事を教えてくれるものが幾つかある。一つは人混み、一つは夜、そしてもう一つは悲鳴が上がらないほど痛めてしまった心だ。

 

 あの日もそうだった。

「おつかれさまでした!」

「じゃあとりあえず、持ち帰ってまた報告します!」


これ以上ない程に通常の別れの言葉。

誰が聞いてもまた次があると思う声色。

それが彼と交わした最後の言葉だった。明るく聞こえるその声を、もう少し注意深く聞いておけばよかった。 

 

 

四月になった。今からちょうど一年前も四月だった。

季節はまだ温かくなったり寒くなったりを繰り返していた。それでも四月という月の魔力は相当なものらしく、街を行く人々は昨日より薄着になったように見える。


まるでどこかの権力者が「春に恥をかかせてはいけない」と言い出したのかと勘違いしそうになる。

それほど三月三十一日と四月一日には、随分と大きな隔たりがあるらしい。

 

かく言う僕も多分に漏れずまだまだ寒い中、コートをしまい薄着で出歩いていた。すぼめた肩が痛みを伴う肩こりを誘発した。

しかめっ面で歩く新宿には春一番が吹きこんでいた。相変わらず人混みにいる程、世の中から孤立しているように感じていた。

ガードレールに腰掛けながら、年が明けてからの三ヶ月を振り返っていた。

 

一、二、三月と年が明けてからの三ヶ月間、僕は何もしていなかった。正確に言えば何も出来なかった。

ライブ活動はやっていたのだが、制作においての物事が進まなかった。契約していたレコード会社との関係値は異様に悪く、予定を先送りにされ続けていた。

会議はいつも水を打ったようで、テーブルの上を言葉が潤滑に飛び交う様子などは殆ど見られなかった。楽しくやりたくない人間は一人もいないのに、楽しそうな人間が一人もいない重たい空間が宙に浮いていた。

 

意味もなく経過していく時間は月を跨ぐ度に、頭に鈍い痛みを与えていた。何かしたくても何もできないのは苦しかった。

そして状態は整わずに予定されていたDVDとシングルのリリースが発表された。

発表はされたものの、練り上げられた流れではなかった。

しかしもはや僕らに関わるあらゆる人が疲れていたように見えた。徐々にモメる事すら減っていった。

 

好転しない関係値は、汚泥したやり取りを繰り返した。だがシングルをリリースする夏は待ってはくれなかった。梶は整わずに船は出た。

レコーディングの工程が終了した時点でもう五月を過ぎていた。発売時期まで時間が無い。本来過密する必要の無い過密スケジュールの中、プロモーションビデオの撮影は行われた。

 

撮影のプロットや段取りを会社が仕切るか自分達が仕切るかという問題に直面した。


正直なところ、音以外の仕事は任せてしまいたかった。今までもそうしてきた。さらに付け加えると、気持ちの揃っていない人達と、一つの仕事を触る作業に僕はもう辟易していた。

だが信用していないのも事実で、やれるものなら自分達でやりたかった。どちらにせよ片方が全てをやらないといけないと思った。手を取り合う事はロクな結果にならないと思っていた。

最高の形とは言えないが、眼前に最悪の形があれば避けたいのは人情だった。

 

「君らの意志を尊重したい」

 

会社のスタッフから出た言葉だった。意外だった。なんと映像の仕切りをほぼやりたいようにやらせてもらった。それも会社が折れたという印象ではなく、任せてもらえたと言っても差し支えなかった。

監督のキャスティングから内容、イメージまで、余計に手を入れられる事はなかった。

この作品を会社と関わる最後の作品にするという話し合いは済んでいたので「最後ぐらい自由にさせてやろう」という気持ちがあったのかもしれない。

僕自身も一度は意志が、統一された芯の通った映像作品を残したかった。

最後の作品にして、ようやくそれが出来るかもしれないという期待が膨らんだ。

 

撮影は順調そのものだった。

監督によるカット割は練りこまれていたが、いざ撮るとシンプルで、難しいポイントも特別無い。二日に分けての撮影となったが、最終的に予定されていたスケジュールは完璧に進み、スタッフの手際が良く、文句の無い現場だった。

撮り終えた日は気分が良かった。その直後だった。監督と一切連絡がつかなくなったのは。

 

「監督は孤独だったのかもしれない」と考えられる程の余裕はなかった。

 

電話をかけた。SNSの動向を追った。アシスタントの職場にも行った。

 

まるで最初から存在しなかったかと思う程に、監督の痕跡は完全に消え失せた。彼のアシスタントは困り果てていた。

だがそれにも増して困り果てたのは僕らだった。キャスティングを自由に決めた分、自らで負債を負う責任もあると思った。苦しかった。 


手に入りそうなものが、また直前で滑り落ちていく手触りに、寒気がした。

「もう何度目なんだ」と呟いたら降りかかった不幸が現実に起こり得てると実感できた。

また人間はよく出来ている。悲しい事が続くと何処かが壊れてしまわないように、しっかりと感情は鈍化する。 しばらく何も感じなくなった。

 

結局プロモーションビデオは完成せずに、シングルは発売日を迎えた。僕らは会社との関係値をゼロにした。

最後は誰が悪くて、何が悪いのかよく分からなかった。自分を始めとするそこにいた誰も正しくはない事だけは分かっていた。

 

夏になってしまっていた。例年に比べて暑かったかさえ、覚えていない夏だった。

 

アルバムを作る事にした。

もはや何かを失くすサイクルが、何かを作るサイクルを追い越してしまっていた気がした。

失態や喪失を、上書きしたかった。負のエネルギーを、新しいものに変えていきたかった。僕らは音楽に救いを求めていた。

そして作りすぎた音楽を外に出さないと、どうかなってしまいそうだった。

 

まだ聞き馴染みのなかったクラウドファンディングという手法を用いた制作に踏み入った。イギリスで生まれ、アメリカで発展した手法だ。

インターネットでファンに制作資金の支援を募り、支援額に合った特別なサービスをリターンするシステムだ。知った時はいかにもアメリカ人が好きそうな仕組みだと思った。

驚く事に支援額によってはレコーディングにコーラスとして参加する事や、練習スタジオに招かれる事もある。

この従来にはない程、ファンがバンドの内部に踏み込めるシステムに賭けてみる事にした。発売日を発表して与えるよりも、発売日にファンと向かっていくアルバムが必要だった。何より自分に必要だった。

 

様々なリターンに触れる中で最も影響を与えたものが「サシの弾き語り」だった。

ライブ会場で弾き語りをやれば当然だが、僕一人対複数人という状態になる。これを個室でマンツーマンでやるサービスを考えた。スタッフもマネージャーもいない完全なマンツーマンだ。

驚いたのがこれに申し込み、支援してくれた人達はあまりLIVE会場に来るような人ではなかった。勿論普段見る人もいたが、遠くから新幹線や飛行機で来てくれる人もいた。

 

十人にマンツーマンで歌を歌わせてもらった。その人達と直接話し、歌う事はとてつもなく大きい経験だった。

 

「会場には行けないけどCD全部持ってます。だからこうしてアルバムを作ってくれて本当に嬉しい」

 

という人がいた。冒頭に書いた年が明けてからの活動では何も届けられなかった事になる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

LIVE主義、現場主義の昨今の音楽シーンの事情において、珍しいスタンスの人かもしれない。僕も眼からウロコがバリバリ剥がれる感覚だった。

そしてその衝撃を超えて、本当に嬉しかった。歌う際に高揚し過ぎて、リズムが普段より荒れていた事を申し訳なく思う。

 

話した事を一生忘れられなそうな人もいた。

 

「死のうと思っていたところに生きる力を貰えました」

と言った人だった。

 

頭は撃ち抜かれたような衝撃に見舞われ、自分が動揺しているのか、感動しているのかすら分からなかった。


初めて会う人だった。

会場でも見かけた事のない人だが、ずっとCDを聴いてくれていたと話してくれた。その人と話していると救う事は出来ないけど、僕の作ってきたものが「手を貸す」ぐらいのものにはなれていた。

自分の音楽に、正面から返事を貰えた瞬間だった。僕が書いた言葉は、その人の中できちんと呼吸をしていた。

歌う事が難しくなる程の鼓動が鳴った。胸の奥がどこかに吸い込まれそうで、猛烈に痛くなった。声が出ずに何度も歌い出しをやり直した。「孤高の人」という曲を二回も歌った。

 

死のうと思っている人も、生きようと思っている人も社会には沢山いる。

社会という山で遭難しているか、登山しているかの違いだけだ。

しかし道を失えば、誰もがたちまち遭難する。生きたい日の合間に、死にたい日は突如挟まってくる。それは予告無く差し込まれ、突如降り注ぐ。


僕も獣道ばかり歩き、遭難と登山を繰り返してきた。

だが道を失くす度、死にかける度に、手を引いてくれる他のクライマー達が常に側にいてくれた。息が出来ない日には、酸素ボンベのバルブを開けるように音楽を作ってきた。


本当は一人ぼっちでない事を、千切れそうな痛覚の中で自覚してきた。淀み、病んだ心から生まれたものが明日の自分を癒していた。そしてそれは確実に他者に届いていた。

 

普段僕らは孤独だし、間違う。そして間違う度に死にたくなる。だが、そんな沸き立つような痛みがあるからこそ、隣りの存在や掛け替えのないものの価値を知る。

 

願わくば自分の音楽が響いた人達と、一緒に死にたい日を超えていきたい。

普段が独りなら、たまには誰かが他人じゃなくなる夜があってもいい。

 

監督にしてもそうだ。

いなくなった理由は独りだったからかは分からない。

それでも独りの人が今以上に独りにならないように、普段独りぼっちの人に届いてほしい。


そんな願いを込めて「一緒にやろう」「一緒にいよう」という意味合いのタイトルを付けて歌を作った。

 

https://www.youtube.com/watch?v=M9IXjSTskPU

 

COME TOGETHER

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