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都内在住

音楽を作って暮らしています。作られた時のお話を書いてます。

誰でもいいわけじゃ無い事を忘れない為に作った曲の事

バンド 作曲 作詞 音楽

今週のお題「好きな街」

 

「もしも優勝するとなるとこちらから一年以内のリリースをお約束して頂かないといけませんがそちらは問題ありませんか?」


「はい。問題ありません!」

「では……!」
 
 
やけに間が長い。
 
 
「おめでとうございます……! 今年の優勝者として是非よろしくお願いします!」

「ありがとうございます!」
 

遠回しすぎるその電話は、応募していたコンテストの優勝を告げる朗報だった。
自分の音楽、仲間と何かを削り合って宿した毎日がその道の権威に認められた。その喜びはまさしく盆と正月が同時に来たと言わんばかりだった。
それなのに窓に映る六月の空模様は灰色に染まり、生温い風は紫陽花の葉を不景気そうに叩いていた。
 

二〇一三年の夏は例年より気温も高く湿度も高かった。
TVからは熱中症で倒れた高齢者のニュースが毎日流され、大手コーヒーチェーンの売り上げはうなぎ登りだった。
そんな年に僕はとあるコンテストでグランプリを獲得し、経験した事のない人数の前で演奏する機会に恵まれた。
 
楽しかった夏が終わると、今まで僕らに見向きもしなかった音楽関係の会社やレコード会社が数多くやってきた。

受賞前と後で作った曲が変わったわけでもない。それなのに突如評価された違和感に複雑な心持ちもあった。結果を作る事より結果を数える事しか出来ない人間の目が怖かった。
だがそれでもやってきた事が認められた事は嬉しかった。自分と仲間が必要とされている事実は紛れもない高揚を覚えた。そんな奥歯に物が挟まったまま、ご馳走を食べているような悩みを抱えながら僕は歩みを進めていた。
 
年間に百本を超える公演スケジュールの中、一緒になる会社が決まった。会った回数や大手特有の具体性のある話は魅力的だった。
レコーディングスタジオのグレードは町の安スタジオから激変し、メディアの露出も急増した。初めての経験が多く、最初は大変な事も多いが楽しかった気がする。そこから十五ヶ月の短い期間で六作の音楽、映像ソフトを制作する事になった。
 
しかし現実は厳しく僕と会社との溝は深まる一方だった。音楽会社と言えども会社のスタッフは言わば一般的な会社員になる。話をしていくだけでも大変な苦労が連続した。だが触り合う音楽は一つだった。

言われている事が分からなく、分かったフリすら出来ない事が増えてきた。本を逆さにして後ろから読めと言われてるような違和感と価値観の違いに泣いた。

一方、公演スケジュールは年間百本以上から変わらないというのにリリースやメディアの仕事は常に回転していた 。身体や心はパンク寸前になっていた。

アーティストと会社がうまくやれなかったという話は古今東西、無数にある。自分達も例に漏れずそうだったというだけの話だ。
もはや原因も理由も分からないし、どちらが悪いという話でもない。と言うよりは考える事にも疲れていた。少なくとも自分の好きな音楽で、関わる人を苦しめている事は分かった。それだけが悔しく、悲しかった。
そしてそれぞれの言い分を言えないまま全員が他人通しの夜を超えて、僕らのチームは進んでいった。
 
未来永劫続くとも思われた変わらない状況と吐き出せない感情は日々募っていった。僕は陽が沈むように、ゆるやかに、そしていつものように壊れていった。
苛立ちは醜く形を変え、様々な方向へ放たれてた。僕の心の弱さは次第に自分から他人、そこら辺に置いてあるもの、無関係なものまでに及んだ。
壁を殴れば叩きつけた拳の肉が裂け、骨が軋んだ。口を開けば本心なのか分からない事しか言えなかった。
それでも頭で考えるよりも先に、心と身体に導かれて行動していた。アドレナリンのせいで痛覚は麻痺し、傷が開いた手の甲はやけに遠くに見えた。割れるような頭痛を振り払うための打撲が多くなった。
作る音楽の中にしか本心が宿らなくなっていった。「言えない人が言えてたら」という歌の詞を五十分弱で書き上げた日があった。

また毎日のように新宿でよくない酒を煽っていた。自分が窒息している事にさえ気付かなかった。不味くつまらない癖になぜか飲んでいた。
街ではくだらない人間と付き合って、くだらない人間になったと思った。それもいいと思った。
自分の人生から段々と臨場感が無くなるのを感じていた。それでも足を止めたくはなかった。絶望が闘志を飲み込んでしまいそうで、それは許せなかった。
 

春が来る頃に熊本で一本の公演があった。
同時間、近いエリアで幾つものアーティストが演奏し、リスナーは好きなステージが観れる。バイキング形式の「サーキット」と呼ばれるライブイベントだった。ここ最近の音楽シーンにはよくある形態らしく様々な土地で行われている。
 
僕らの出演と同時間にも様々なアーティストが演奏する事が決まっていた。初めての熊本でリスナーを集める事は困難だと思っていた。わざわざ飛行機でガラガラのフロアに向かって歌いに行くのかと思うと気が重かった。自分の心が集中しているのか拡散しているのかよく分からない奇妙な感覚だった。
 
いざ当日ステージに立つと気持ちが折れかけた。二百人程入るスペースに十人程しかいなかったのだ。そんな客入りで演奏するのは久しぶりだった。しかも日本の端っこの熊本県だ。
胃が収縮するような倦怠感が全身を包み込みそうになった時、ふと客席を見ると僕の目を引く顔があった。普段近畿、中部のライブに来てくれているファンだった。初めてライブハウスに来た中学生のように目を輝かせステージが開けるのを待っていた。
 
驚いた。
 
本土ならいざ知らず、熊本に来てくれている。年間に百本もやっているのだからいつでも観れる。こんなところまで自分の音楽を聴きに遠出してくれる人がいる事に驚きを隠せなかった。その映像は一瞬網膜に焼きついただけだった。それでも相次ぐ苦しさに気持ちが切れかけていた自分の情けなさと心細さに温かく流れ込んだ。余分な感情が溶け出す感覚を覚えた。たった一人の存在のありがたさに胸が熱くなった。
 
好きなもので何かを成した証が欲しかった。
大手に所属する事で手に入るものもあった。
 
だがそんな事が増えすぎて一番大切なものが見えなくなっていた自分の愚かさを知った。気付くとライブは始まっていた。オーディエンスは十人程度しかいない。でもその十人にとって少しでも意味あるものを残したかった。
 
一曲歌う度にオーディエンスが増えている気がした。もう一曲歌うとフロアの半分が埋まっているように見えた。実際に増えていた。
休んでいる客に様子が伺えるように、TVモニターが設置されライブは永続的に中継されている。それを観て来たのかは分からないが、他のステージから三角州の激流のように人が流れてきていた。
 
ライブの最後には二百人のフロアに規制がかかる程の満員になっていた。
植物のように無感覚だった神経が、乾燥した冬の感電のように過敏になっていくのを感じた。「しびれるライブだった」という高校生の頃に読んだ雑誌に載っていたカナダのミュージシャンのコメントを思い出した。
 
嬉しかった。
喜びで世の中が明るくなったように見えた。自分の心が身体を通して、知らない街の人の心に突き刺さった。その二百人のフロアは今まで見たどんなステージよりも輝いて見えた。そしてそれは最初に居てくれた十人がいなければ、決して作られるものではなかった。日本の端である熊本という街で東京では学べない大きな事を教わった。
 
 
それから数日後、レコード会社を離れる事が決まった。円満にだ。ただ自分が歌を届けたい対象が明確に分かったおかげでかかっていた靄が晴れたように思えた今、必要性を感じなかった。
 
当然大きいステージやトップチャートを目指している。それとは矛盾するかもしれない。でも僕の音楽は誰にでも届けば良いわけじゃないと気付いた。
 
流行り廃りを超えて一番大切だと思ってくれる人が一万人が集まった風景を見たい。そんな事を忘れない為に歌を作った。
 

 

COME TOGETHER

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