四人でやっている曲の事
音楽を初めて、続いている事の理由を忘れないために作った曲の事
自信を失くすと自分を見失い、途方にくれる。
僕がその感覚に初めて滑り落ちたのは十四歳の頃だった。
中学生活も二年目になり、難易度が苛烈する勉強の反動か、教室内で横行するイジメまでが、つられて苛烈していた。
僕自身はイジメの被害者でも加害者でもなかったが、学校は面白くなかった。ロクに友達がいなかったので、基本的には学校は眠る場所になっていた。
教室は見たくもないものが氾濫し、罪状が無くても残忍さだけで捕まえといた方がいいんじゃないかと思う人間が腐るほどいた。もはや目を閉じている方が楽だった。
来る日も来る日も眠っていた。しかし、それを気に留めるクラスメイトもいなかった。誰とも言葉を交わさずに一日が終了する事がザラにあった。
もしも教室の扉が自動ドアなら開かないんじゃないかと思う程に、僕は教室で認識されていなかった。そんな仲間も敵もいない教室で眠り続け、一人苦しんでいた。
悪だと分かっているイジメに対しては何も出来ず、それどころか人と関わる事もしない毎日は、自分がこの世に存在している必要性を見いだせなかった。
思春期特有と言えばそれまでだが、本人にとって苦しいものは苦しい。十四歳の僕は確実に苦悩し、葛藤していた。
そんな中、意外にも僕は野球をやっていた。チームプレイが、何よりも大切なスポーツをやるような人格ではないにも関わらず、バットを握っていたのだ。
小さい頃は本当に野球が好きだった。地元神戸には将来、大リーグ史上に残る大記録を打ち立てるイチロー選手がいた。神戸では皆がイチローに憧れては野球を始めた。
しかし、中学生の部活動と化した野球はひどくつまらないものだった。好きなものがつまらなくなる時はいつもゆるやかに、自然に老衰していく。決定的な理由があって嫌になるわけではない。細かい事が積み重なり、段々と全てが嫌になるのだ。
ダウンスイング信者だった指導者の教員はホームランを打った生徒よりも、自分の提唱するスイングで、サードゴロを打つ生徒を可愛がっていた。その思想がどうという事ではないが、もしも自分がホームランを打った生徒だったら「これはたまらないな」と思っていただろう。
アッパースイングで凡退でもしたら、怒り狂いバットを投げつける監督はバットの扱い方よりも自分自身の心の扱い方に問題があった。
また、僕の中学は近隣にある二つの小学校の生徒が、自動的に進学してくる公立校だったので部員の数も多く、やりきれない派閥も多かった。それらは部活内にも如実に反映された。
そして勉強した後に練習に出ないと怒鳴られ、先輩からは理不尽な暴力が飛んできた。
一人の帰り道はいつも、怒りと憎しみで、全身が震え、悲しさと絶望感で、体内の血がすべて、沸騰するような感じがした。
そして少しずつ僕の中の野球熱は溶解していった。一方で好きなものさえ嫌いになってしまう自分が嫌だった。だが心はもう滑り出していたので、止まらなかった。
その年の夏はとても暑かった。毎日が耐えきれないほどの暑さと、耐えきれないほどの長さで構成されていた。
その日も練習を放り出して、まだ嫌がる肺にマイルドセブンを叩き込みながら下校していた。
未成年でもタバコが買える時代が、良いか悪いかは分からないが、少なくとも僕はこの禁じられた行為を一人で楽しむ事に、後ろ暗い高揚を覚えていた。
往々にして身体に悪いものは魂にとって嬉しいものが多い。そして読んでいた小説の主人公が未成年で嗜んでいたマイルドセブンはどうしようもなく格好良く見えた。
この主人公はマイルドセブン以外にもギターというアイコンを持っていた。情報統制された全体主義国家に生まれ、音楽の自由が禁止されている国で、ロックンロールをプレイする彼は僕の最初のロックスターだった。
分厚いその本を何度も読んでいるうちに、自分の中で、野球部や教室が全体主義国家の政府の悪者に見えてきた。思想にがんじがらめになり、思いやりを無くした人々は愚かしく見えた。
部からは次第にフェードアウトしていき、いつの間にか、顔を出す事は無くなった。
代償としての制裁だと言わんばかりに、野球部員からの嫌がらせや、陰口が降り注いだ。色んな病気だと言われた。鬱病でも中二病もいいが、いつも世の中は、人を簡単にひとまとめにして攻略した気になる。
野球人口を増やしたイチローは、神戸の少年達に夢も与えたが、影も与えたのかもしれない。
夏の終わり、毎日を無気力に過ごしていた僕は父親に、三万円のアコースティックギターを買ってもらった。YAMAHAのFS-325という、もう非売品になっている機種だ。
何度読み返したか分からないその本に感化され、自分でも何か行動を起こしたかったのかもしれない。
せめて自分の中に陣取る気持ち悪い塊を吐き出したかった。それには武器が必要だった。
好きなミュージシャンがいたわけではないのに、ギターを買う人は少ないと思う。僕は実在するヒーローではなく、小説の中にいる架空のヒーローに憧れてギターを手にした。
後に好きなミュージシャンは数え切れないほどに出来たが、始めた当初は殆どいなかった。そもそも音楽を好んで聴いたりはしていなかった。
完全にゼロから始まった音楽人生だった。
ひたすら自作で曲を作っていた。弾く曲も無いし、有名な練習曲は覚える手間が面倒だった。それにそもそも僕は何かを吐き出したくて、ギターを買ったのだ。そこに他人の曲は要らなかった。
音楽的な作法、ルールは何も分かっていないが、言葉は湧き水のように溢れていた。言いたかった事や、鬱屈していた感情はメロディに乗り、毎日ノートに吐き出された。
作品としては不出来だったと思う。それでもこの世に無い物を生み出し、記録していく行為は自分自身の存在を強く認識できた。
自分が生まれてなかったら、生まれなかった曲があるという事実は、嫌な事、つまらない事全てから乖離させてくれた。
リスナーが一人もいない音楽は、狭い部屋の一室で、猛烈なスピードで生産されていた。どんどん学校に行く日は減っていき、食事を摂る回数も減っていった。
もはや祈りを捧げるように書いていたと言っても過言ではなかった。書いたものが何かを叶え、日常ではない、どこかに連れて行ってくれると信じて書いていた。
ひたすら作っていると五十曲を越えたあたりから、作った曲が、似通ったものばかりである事に気付いた。端々は違うのだが、どうしても類似点が気になる。それは自分の中の音楽の引き出しが完全に底をついた瞬間だった。始めて一年弱でバックグラウンドが無いツケが回ってきたのだ。早くも僕は音楽家として焼け野原となった。
待っていても新たなメロディもサウンドも出てこないので、言葉が出てこない。魂の代謝が低下していく感覚がみぞおちの下辺りで、鈍く振動していた。吐き出せない時間は、息が詰まる心持ちだった。
新しい作曲能力を手に入れるという必要にかられて、アメリカやイギリスの音楽を聴いた。先人から技術を学ぼうと思ったのだ。今もマッカートニーが言った「オリジナリティは模倣から始まる」という言葉には強く同意している。
何から聴いてもかまわなかったのだが、小説の主人公もブルーススプリングスティーンを敬愛していたので、僕もそうする事にした。
ブックオフの中古コーナーで、スプリングスティーンとニールヤングとビートルズを買った。セール品で安かったのもあるが、小説の中で名前が登場したからだ。
古くさい音楽だろうな。ぐらいには思っていた。
しかしそれはもう、圧倒的だった。洗練されたメロディに、タフな演奏。七十年代、八十年代に作られた作品が、僕にとっては最新だった。
その日を皮切りにひたすらロックミュージックを聴き続けた。とても楽しかった。楽しいだけではない喜びに包まれた。
ロックミュージックを聴いていると、あの日の帰り道とは、全く違うエネルギーに満ち溢れた血の沸騰、興奮を感じられた。
なんというか離れた時代、離れた国にも、自分達の存在を、ただ音楽に燃やしていた男達が存在する事が、嬉しくなっていた。
僕はずっと一人で枯れた感覚を焼べるように歌を作っていた。だが、同じ感覚を持って、生きている人間が世界には確かにいた。
おこがましいが、この頃の僕は世界のロックスター達に仲間意識みたいなものが芽生えていた。
おかしな話だ。狭い部屋で、誰にも聴かれない音楽を作っていた極東の子供が、欧米のレジェンド達にフレンドシップを感じていたのである。でも、これはもう心から感じてしまっていたので、自分でもどうしようもなかった。
バンド名が印字されただけの真っ白なCDや、ロンドンの路地ですれ違う人のCD、赤ん坊がジャケットのCDが毎日ヘッドホンから流れた。その間だけはソングライターに寄り添ってもらっているようだった。
自分の苦しみを代弁するような歌がいくつもあった。
学校での苦痛な時間も、延々と歌で耳を塞いでいた。学校での一人ぼっちは変わらなかったが、もう寂しくはなかった。
ロックミュージックには不思議な力があった。パーティのフィーリングや、ポジティブの押し売りではない確かな温かさがある。それはリアルで悲しくて、鋭くて優しかった。
聴き終わると必ず彼らの真似でしかないような曲を書き、また別の音楽を聴いてというルーティンを繰り返していた。
この一人で音楽をやっていた時間はとても大切だった。技が知らず知らず、練られ、磨かれていった気がする。
同じ事をずっと繰り返す事は非合理的かもしれないが、大きな意味があると思っている。中学高校の五年間で二百曲は作ったと思う。
三年生になる頃、楽器店でとある女の子に出会い。アルバムを一枚貸す事になる。シンプルな青の背景に、やたらと居心地が悪そうにしている四人組のCDだ。
得た能力が先人から受け継いだ賜物である事を、忘れない為に歌を書いた。
【それでも弾こうテレキャスター Track-4】ブルーアルバム | QOOLAND 歌詞
普段独りぼっちの人に届いてほしいと思って作った曲の事
今週のお題「卒業」
人が孤独である事を教えてくれるものが幾つかある。一つは人混み、一つは夜、そしてもう一つは悲鳴が上がらないほど痛めてしまった心だ。
あの日もそうだった。
「おつかれさまでした!」
「じゃあとりあえず、持ち帰ってまた報告します!」
これ以上ない程に通常の別れの言葉。
誰が聞いてもまた次があると思う声色。
それが彼と交わした最後の言葉だった。明るく聞こえるその声を、もう少し注意深く聞いておけばよかった。
四月になった。今からちょうど一年前も四月だった。
季節はまだ温かくなったり寒くなったりを繰り返していた。それでも四月という月の魔力は相当なものらしく、街を行く人々は昨日より薄着になったように見える。
まるでどこかの権力者が「春に恥をかかせてはいけない」と言い出したのかと勘違いしそうになる。
それほど三月三十一日と四月一日には、随分と大きな隔たりがあるらしい。
かく言う僕も多分に漏れずまだまだ寒い中、コートをしまい薄着で出歩いていた。すぼめた肩が痛みを伴う肩こりを誘発した。
しかめっ面で歩く新宿には春一番が吹きこんでいた。相変わらず人混みにいる程、世の中から孤立しているように感じていた。
ガードレールに腰掛けながら、年が明けてからの三ヶ月を振り返っていた。
一、二、三月と年が明けてからの三ヶ月間、僕は何もしていなかった。正確に言えば何も出来なかった。
ライブ活動はやっていたのだが、制作においての物事が進まなかった。契約していたレコード会社との関係値は異様に悪く、予定を先送りにされ続けていた。
会議はいつも水を打ったようで、テーブルの上を言葉が潤滑に飛び交う様子などは殆ど見られなかった。楽しくやりたくない人間は一人もいないのに、楽しそうな人間が一人もいない重たい空間が宙に浮いていた。
意味もなく経過していく時間は月を跨ぐ度に、頭に鈍い痛みを与えていた。何かしたくても何もできないのは苦しかった。
そして状態は整わずに予定されていたDVDとシングルのリリースが発表された。
発表はされたものの、練り上げられた流れではなかった。
しかしもはや僕らに関わるあらゆる人が疲れていたように見えた。徐々にモメる事すら減っていった。
好転しない関係値は、汚泥したやり取りを繰り返した。だがシングルをリリースする夏は待ってはくれなかった。梶は整わずに船は出た。
レコーディングの工程が終了した時点でもう五月を過ぎていた。発売時期まで時間が無い。本来過密する必要の無い過密スケジュールの中、プロモーションビデオの撮影は行われた。
撮影のプロットや段取りを会社が仕切るか自分達が仕切るかという問題に直面した。
正直なところ、音以外の仕事は任せてしまいたかった。今までもそうしてきた。さらに付け加えると、気持ちの揃っていない人達と、一つの仕事を触る作業に僕はもう辟易していた。
だが信用していないのも事実で、やれるものなら自分達でやりたかった。どちらにせよ片方が全てをやらないといけないと思った。手を取り合う事はロクな結果にならないと思っていた。
最高の形とは言えないが、眼前に最悪の形があれば避けたいのは人情だった。
「君らの意志を尊重したい」
会社のスタッフから出た言葉だった。意外だった。なんと映像の仕切りをほぼやりたいようにやらせてもらった。それも会社が折れたという印象ではなく、任せてもらえたと言っても差し支えなかった。
監督のキャスティングから内容、イメージまで、余計に手を入れられる事はなかった。
この作品を会社と関わる最後の作品にするという話し合いは済んでいたので「最後ぐらい自由にさせてやろう」という気持ちがあったのかもしれない。
僕自身も一度は意志が、統一された芯の通った映像作品を残したかった。
最後の作品にして、ようやくそれが出来るかもしれないという期待が膨らんだ。
撮影は順調そのものだった。
監督によるカット割は練りこまれていたが、いざ撮るとシンプルで、難しいポイントも特別無い。二日に分けての撮影となったが、最終的に予定されていたスケジュールは完璧に進み、スタッフの手際が良く、文句の無い現場だった。
撮り終えた日は気分が良かった。その直後だった。監督と一切連絡がつかなくなったのは。
「監督は孤独だったのかもしれない」と考えられる程の余裕はなかった。
電話をかけた。SNSの動向を追った。アシスタントの職場にも行った。
まるで最初から存在しなかったかと思う程に、監督の痕跡は完全に消え失せた。彼のアシスタントは困り果てていた。
だがそれにも増して困り果てたのは僕らだった。キャスティングを自由に決めた分、自らで負債を負う責任もあると思った。苦しかった。
手に入りそうなものが、また直前で滑り落ちていく手触りに、寒気がした。
「もう何度目なんだ」と呟いたら降りかかった不幸が現実に起こり得てると実感できた。
また人間はよく出来ている。悲しい事が続くと何処かが壊れてしまわないように、しっかりと感情は鈍化する。 しばらく何も感じなくなった。
結局プロモーションビデオは完成せずに、シングルは発売日を迎えた。僕らは会社との関係値をゼロにした。
最後は誰が悪くて、何が悪いのかよく分からなかった。自分を始めとするそこにいた誰も正しくはない事だけは分かっていた。
夏になってしまっていた。例年に比べて暑かったかさえ、覚えていない夏だった。
アルバムを作る事にした。
もはや何かを失くすサイクルが、何かを作るサイクルを追い越してしまっていた気がした。
失態や喪失を、上書きしたかった。負のエネルギーを、新しいものに変えていきたかった。僕らは音楽に救いを求めていた。
そして作りすぎた音楽を外に出さないと、どうかなってしまいそうだった。
まだ聞き馴染みのなかったクラウドファンディングという手法を用いた制作に踏み入った。イギリスで生まれ、アメリカで発展した手法だ。
インターネットでファンに制作資金の支援を募り、支援額に合った特別なサービスをリターンするシステムだ。知った時はいかにもアメリカ人が好きそうな仕組みだと思った。
驚く事に支援額によってはレコーディングにコーラスとして参加する事や、練習スタジオに招かれる事もある。
この従来にはない程、ファンがバンドの内部に踏み込めるシステムに賭けてみる事にした。発売日を発表して与えるよりも、発売日にファンと向かっていくアルバムが必要だった。何より自分に必要だった。
様々なリターンに触れる中で最も影響を与えたものが「サシの弾き語り」だった。
ライブ会場で弾き語りをやれば当然だが、僕一人対複数人という状態になる。これを個室でマンツーマンでやるサービスを考えた。スタッフもマネージャーもいない完全なマンツーマンだ。
驚いたのがこれに申し込み、支援してくれた人達はあまりLIVE会場に来るような人ではなかった。勿論普段見る人もいたが、遠くから新幹線や飛行機で来てくれる人もいた。
十人にマンツーマンで歌を歌わせてもらった。その人達と直接話し、歌う事はとてつもなく大きい経験だった。
「会場には行けないけどCD全部持ってます。だからこうしてアルバムを作ってくれて本当に嬉しい」
という人がいた。冒頭に書いた年が明けてからの活動では何も届けられなかった事になる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
LIVE主義、現場主義の昨今の音楽シーンの事情において、珍しいスタンスの人かもしれない。僕も眼からウロコがバリバリ剥がれる感覚だった。
そしてその衝撃を超えて、本当に嬉しかった。歌う際に高揚し過ぎて、リズムが普段より荒れていた事を申し訳なく思う。
話した事を一生忘れられなそうな人もいた。
「死のうと思っていたところに生きる力を貰えました」
と言った人だった。
頭は撃ち抜かれたような衝撃に見舞われ、自分が動揺しているのか、感動しているのかすら分からなかった。
初めて会う人だった。
会場でも見かけた事のない人だが、ずっとCDを聴いてくれていたと話してくれた。その人と話していると救う事は出来ないけど、僕の作ってきたものが「手を貸す」ぐらいのものにはなれていた。
自分の音楽に、正面から返事を貰えた瞬間だった。僕が書いた言葉は、その人の中できちんと呼吸をしていた。
歌う事が難しくなる程の鼓動が鳴った。胸の奥がどこかに吸い込まれそうで、猛烈に痛くなった。声が出ずに何度も歌い出しをやり直した。「孤高の人」という曲を二回も歌った。
死のうと思っている人も、生きようと思っている人も社会には沢山いる。
社会という山で遭難しているか、登山しているかの違いだけだ。
しかし道を失えば、誰もがたちまち遭難する。生きたい日の合間に、死にたい日は突如挟まってくる。それは予告無く差し込まれ、突如降り注ぐ。
僕も獣道ばかり歩き、遭難と登山を繰り返してきた。
だが道を失くす度、死にかける度に、手を引いてくれる他のクライマー達が常に側にいてくれた。息が出来ない日には、酸素ボンベのバルブを開けるように音楽を作ってきた。
本当は一人ぼっちでない事を、千切れそうな痛覚の中で自覚してきた。淀み、病んだ心から生まれたものが明日の自分を癒していた。そしてそれは確実に他者に届いていた。
普段僕らは孤独だし、間違う。そして間違う度に死にたくなる。だが、そんな沸き立つような痛みがあるからこそ、隣りの存在や掛け替えのないものの価値を知る。
願わくば自分の音楽が響いた人達と、一緒に死にたい日を超えていきたい。
普段が独りなら、たまには誰かが他人じゃなくなる夜があってもいい。
監督にしてもそうだ。
いなくなった理由は独りだったからかは分からない。
それでも独りの人が今以上に独りにならないように、普段独りぼっちの人に届いてほしい。
そんな願いを込めて「一緒にやろう」「一緒にいよう」という意味合いのタイトルを付けて歌を作った。
https://www.youtube.com/watch?v=M9IXjSTskPU
将来線路に飛び込まない為に作った曲の事
今週のお題「好きな街」
レールと車輪が断末魔のような音をあげ小田急線は緊急停止した。
「ただいま人身事故発生のため運行を見合わせております。お急ぎのところ大変申し訳ありません。」
アナウンスが鳴り響くと同時に乗客のため息と舌打ちが聞こえてきた。この人口密度のせいか彼らの落胆と苛立ちはあまりに鮮明に伝わった。
「すみません。人身事故がありまして、着くの遅れそうです。すみません」
目の前のサラリーマンとおぼしき中年は謝罪に始まり謝罪に終わる日本語をスマートフォンにぶつけている。座席のOLは事故発生前にしていた化粧のチェックを事故発生後も継続している。
十五分後電車は動きだし、彼らと共に新宿駅のホームに勢いよく吐き出された。
到着と同時に走る者もいれば駅員から遅延証明書を受け取り歩く者もいる。下車後ただただそれを見ていた。その風景を見つめていると不思議と足が前に出なかった。
押し寄せる人の波は僕の胸に次第にやり場の無い悲しさを放り込んで来た。その心臓が鷲掴みにされているような閉塞感は今までに味わった事のないものだった。
彼らの足は前に進んでいた。速度の違いはあれど誰もがそれぞれの目的地へとつま先を踏み出していた。それを見て僕は彼らが何かを守っている事に気付いた。一人で暮らす者は自分を。家族がいる者は家族を。夢がある者は夢を。皆何かしらを守るためにそれなりに我慢して折り合いをつけながら日々をやりくりしている。
しかし朝は彼らの体調や事情を汲む事は決してせず、ひたすらに日々を投げつけてくる。誰もが苦しさを誤魔化しながら逃げもせずに黙々とそれを打ち返している。
新宿駅は皆自分の事で精一杯だった。視界は自分の身を守るためだけの広さに集約されていた。そんな中、今日は運の悪いやつが一人亡くなっただけの話。そう言いたげな風景だった。
勿論今日だけではなくこの国の何処かで昨日も一昨日も誰かの命が散っている。
我が国には年間に三万人もの自殺者がいる。行方不明者を合わせると倍以上の数になる。残念だが先ほど起こった事は別段珍しい事ではないのが事実だ。
僕はそれでも立ち尽くしていた。
「今日死んだ人だって1年前まではこうして背筋を伸ばして新宿を歩いていたんじゃないだろうか」
そう思うと目の前で今日に立ち向かう新宿駅の人々が急に綱渡りをして毎日を繋いでいるように見えた。彼らがいつ落ちるかも分からない太さの綱を猛スピードで行き来しているような感覚だった。
年間三万人と書くと一言だ。しかし人が死んだ事象が365日だけで3万回あったと考えると陰鬱な気分は僕の臓物全域に散布された。彼らには家族もいたかもしれない。恋人がいたかもしれない。夢があったかもしれない。それこそ新宿駅の人々同様に何かしらを守ろうとして戦っていたかもしれない。普通に考えればそうでしかなかった。
人一人の人生が終了する。機械が壊れたのとは訳が違う。人生にはそれぞれの心があり、それぞれに関わった人々がいたはずだった。平凡なんてものは実際この世には皆無でありそれぞれのドラマが人の数だけ存在する。
だが心は破れさり散った。自分が乗っていた電車に飛び込んだ誰かの命が散った。
その出来事の重さに反比例して通常運転の新宿駅はあまりにリアリティが無かった。しばらくしても心は鈍く痛み、風邪のような耳鳴りはやまなかった。
人が多すぎる程多い東京の中でも死ぬ時は皆一人だ。当然だが悩みが悩みだけに気軽に相談などできなかったと思う。相談しても止められると分かっている悩みなど相談事として成り立っていない。人は皆一人で孤独に散っていく事を如実に表している事実だ。
では飛び込む時怖くなかっただろうか。今日までは守ってきた「何か」がもう二度と守れなくなった事は悔しくなかったのだろうか。守り続ける苦しさよりもたった一人で死の恐怖を選択した彼はどんな思いで死んでいったのだろうか。
そして誰が次の年の三万人になるかは本人にさえも分からない。目の前の走る人も歩く人もそれを見ている僕自身も綱から落ちる可能性がある。そう考えると胸が千切れそうになった。死にたくなかった。生きて今この時よりも人生を良くしたいと思っていた。
気付くとアルバイト先に行く時間はとうに過ぎ、スマートフォンにはフィーバーしたパチンコのように電話がかかってきていた。しかし動けなかった。僕はもうなんとなく働く気になれなかった。
ひたすら歩く事にした。
新宿から代々木上原。下北沢、下北沢、新百合ケ丘へと歩いた。歩いていると耳鳴りがやむ気がした。定期的に訪れる金属と金属を叩きつけたような踏切の音を手掛かりに線路沿いを歩いた。足の感覚が無くなるまで歩き続けた。
気付いたら空は次第に暗くなり、まるで僕の体調や事情を汲むかのように陽は落ちた。
その落陽は何もしたくない人間にとって唯一訪れる安息の瞬間を映像化したかのように見えた。
二十三歳になる上京したばかりの春の事だった。
その日の事を歌にしたら少し心が楽になった気がした。
誰でもいいわけじゃ無い事を忘れない為に作った曲の事
今週のお題「好きな街」
「もしも優勝するとなるとこちらから一年以内のリリースをお約束して頂かないといけませんがそちらは問題ありませんか?」
失くす事から目を背けない為に作った曲の事
大切なものを失う。という感覚を最初に知るのはいつだろうか。幼児の頃だろうか。それとももう少し成長した頃だろうか。思い出す事ができる者は稀だと思う。
海馬を掘り返すように記憶を探ってみると、鮮明に覚えている一日がある。小学一年の頃だ。飼っていたジャンガリアンハムスターが老衰で死んだ。
僕の住んでいた町は両親の実家と離れていた。さらに複合家族ではない家に育った僕にとって、祖父や祖母の死、仏壇などは身近な存在とは言えなかった。そんな僕にとって最初の命の消失を教えてくれたのは小さなペットだった。
この前まで所狭しと走り回っていたペットはある朝、全く動かずに横たわっていた。材木のように取り扱い易くなったその体は、昨日まで生命が宿っていたとは信じ難い程だった。
ただただ悲しかった。その独特の神経を握り込まれているような胸の痛みは今も覚えている。そして脈々と波打っていた生命が終了した現実を象徴するかのような横たわる小動物はひたすらに痛ましかった。
僕は幼い頃から大人に従順な子供ではなかった。もっと言えば大人に対し、侮りに近い感情を抱きながら毎日を垂れ流していた子供だった。その考えからかペットを失った悲しみを伝える事はしなかった。
この心の痛みは打算や面子で生きる親や教師に理解はできまいと決めつけていた。
その次の年だった。
遠く離れた場所で父方の祖父が息を引き取った。癌による病死の数え年は七十七だった。
前述した通り身近とは言えなかった祖父の死はどこかピンと来なかった。会った事も数度であったし、悲しもうにも悲しみようがなかった事を覚えている。
葬儀の日がやってきた。
まだ出来たばかりの明石海峡大橋を渡り、淡路島を越えていく。この半年後に震源地になるとは露知らず神戸の海は穏やかだった。
僕にとって人生で経験する初めての葬儀となった。
出席者達の身を包んでいた黒服が印象的だったが、葬式と言えばもっと厳粛なものかと思っていた。式が始まるまで大人達は祖父の生前の話を肴に、楽しそうに酒を酌み交わしていた。意外にも笑顔が飛び交い、特別消沈もしていない雰囲気は不謹慎にも見えた。
その光景を見てやはり大人は打算や面子で生きている薄情者だと思った。命の消失に寄せる灰暗い虚無感という感性を持つ自分とは違うと軽蔑した。繊細さは年齢と共に失われるのだと感じていた。
暫くして式が始まった。
経が読まれ木魚の音が大部屋にルーズに鳴り響いていた。話に聞いた事はあるが当然初めて見る儀式だった。だが特別興味をそそられる事も無く、一刻も早く帰りたい気持ちが大きくなっていた。
退屈によそ見ばかりしていただろうか。ふと横を見ると父親が泣いていた。父の涙を初めて見た。
釣られたか否か分からないが、気付けば他の大人達も泣いていた。大勢の大人が集まり泣いているという光景は衝撃だった。噛み締めるような嗚咽を上げる彼らに動揺した。そんな僕を置いてけぼりにするかのように式は進行した。
祖父を極楽浄土に誘う経は後半を迎えつつあった。ふすまから差し込む傾いた陽が綺麗だった。その日の全てを悼むように燃えていた。
帰りの車の中、ボンヤリと考えていた。
「大人はそう易々と悲しみを顔に出せないのかな」
冷徹、諦観主義、無感情、守銭奴。そんなイメージばかりだった。
しかし大人には大人の事情があって、泣きたくてもそう簡単に泣く事が出来ないのかもしれない。そう思うと大人が何となく仲間になったような気がした。
訪れる悲しみに彼らも納得をしているわけではない。だが後ろばかりを見ているわけにもいかない。僕は自分という小さな存在が、その営みの中で生かされている事を感覚的に知った。
それから十年後に僕は両親と暮らす事と住んでいた町を失う事になる。
様々な事情で実家に住めなくなり、大阪で一人で暮らさなくてはいけなくなった。この急遽訪れた両親や地元との離別は改めて「失くす」という出来事の無情さを思い知った。だが泣いているばかりでは生きてはいけない。
今僕が兼ね備えているもの全てに永遠は無い。
歌を作る事を延々と続けてきているが、いつ何時この能力を永遠に失うかは誰にも分からない。そして信じているものが側から離れていく事は今までも無数にあった。その度に心の強度が増せば良いのだが、そんな事はまるで無く、つらい事件に幾度となく僕は砕かれた。
もう人間をしばらくやっている。
段々と掴めるものが幾つも無い事が分かってきてしまった。あれもこれも手に入れる事は出来ない。
だが無情にもたった一つの事ですら抱きしめていくには生半可じゃない努力がいる。そしてそれすらも力及ばず運及ばず、手から滑り落ちる事がある。
しかし「いつか消えるから信じるのをやめる」「いつか失くすから護るのをやめる」という理屈に感情が導かれた事は一度もない。人は必ず失ってしまう。それを大人達は知っていた。それでも日々懸命に失くならないように足を前に運び、手は何かを掴もうとしていた。
僕も大人になった。 あの日泣きたくても簡単に泣かずに生きていた大人達になれただろうか。少しでも近づきたくて歌を作った。
【それでも弾こうテレキャスター Track-3】大切なお知らせ | QOOLAND 歌詞
護られている事を忘れない為に作った曲の事
頭上の雲まで茜色に染まったかと思うと、次の瞬間には夏の夕闇がにわかに濃く迫ってくる。そんな表現がよくよく似合う、時間の流れがやけに早い一日だった。もう二十年以上前の事だ。