都内在住

音楽を作って暮らしています。作られた時のお話を書いてます。

四人でやっている曲の事

高速道路は目を閉じたまぶたに、様々な種類の明るさを放り込んでくる。疲れているはずなのに心が不安定なせいか、もう二、三時間は眠れないでいる。
それでも気心が知れた人間だけで移動出来る。たまにそのありがたさを噛み締める事がある。


平成二十三年。
普遍的な、社会の幸不幸の数直とは違う次元の、ねじれの位置にあるような感覚を抱えながら、僕等四人は平成二十四年へと向かっていた。

都内でバンドを結成して、僕等はすぐに関西や中部地方でのライブ活動を行っていた。地方でも誘いがあればすぐに出演を決定していたし、どこへだって行った。

統計を用意していなくて申し訳ないが、これはおそらく、一般的な都内在住バンドの活動とは異なると思う。
大半のバンドは自分達の住んでいる場所を作り上げてから、地方へと挑戦、進出していく。

僕等が都内と同じ頻度で、地方でライブを行うやり方を採った理由は様々あったが、第一にとにかく、色々な場所で沢山ライブ活動がやりたかった。純粋に渇望していた。
全員が一度東京に敗れた四人だったせいか、呼吸するように、物を食べるように、とにかく音楽を鳴らす必要があった。

しかし、車を持っているはずもない生まれたてのバンドの移動する手段は高速バスしかなかった。

関西までの往復額が一人五千円程度だったと思う。高いか安いかは分からないが、少なくとも僕等の毎日にはしっかり痛恨のダメージを与えていた。
呼吸をするために、一人一人が金と、金以外の全てを切り詰めて活動していた。

最初の活動は五曲の無料ダウンロード、会場限定のCD販売、そしてまた五曲の無料ダウンロードだった。当然だが、移動手段が変わるはずもなかった。

それでも止まる事なく走り続けた。
止まらない音楽活動は求め続けていたものだった。だがそれでも人間、苦しいものは苦しかった。

地方への行きは夜行バスだが、帰りは朝のバスになる。
この行程が身体にも心にも打撃を与えていた。

イベントが終わり、日をまたぐ頃にライブハウスから解放される。僕等は深夜、知らない街に行くあてもなく、四人だけになる。

あの日は夜空が溶け落ちるような雨が凄まじい響きを立てていた。
ホテルやネットカフェに泊まる金もないので、僕等四人は地下通路でそれを凌いでいた。

地面を叩く雨の音がやたらと響く通路だった。
まるで金管楽器の中に閉じ込められたような気分になった。
そしてそこには僕等の他に人間はいなかった。
人間と呼ばれる二足歩行の生き物は、天候に合わせて、相応の場所へ移動するらしい。
十時間後には僕等を護送するバスが駅前にやってくる。それまで時間を潰さなくてはいけない。

何時間か経っても、外ではコンクリートがまだ雨の連打を浴びているようだった。
僕等は打ち付ける音に遠慮するように、小さな声で話しながら、膝を抱えて朝を待っていた。

なんとなく、曖昧だが、あの時は朝だけではなく、何かを待っていた気がする。未来か希望か分からない。陳腐な言葉で表せない、世界で僕等四人にしか分からない奇妙な感覚がある。

焦燥感と充足感、期待感とまぎれもない苦痛、寂しさに似た何かが混ざり合ってドロドロになっていた。
ドリンクバーの飲み物を、全部混ぜ合わせたみたいな色をした感情は、焼け焦げて暗い地下通路に充満していた。
僕等はバンドをしていた。組むだけ、演るだけでは味わえない、一人では絶対に生み出せない感情を核にしながら、猛烈に千切れそうになりながら、バンドをしていた。


気付くと朝が来ていた。
眠れる環境でもないが、意識は朦朧としていた。体育座りのまま、睡眠と覚醒の狭間を引きずり回された脳を無理やり叩き起こして、バス停へと向かう。
腰を上げると足がやたらと冷えていた。持ち上げた重たい楽器と、身体は何かのペナルティみたいだった。

「壊れても責任取りませんよ」

バスを運転するために生まれてきたらしい初老の運転手が、早口に告げる。
まるで人が犬か猫に語りかけるような口調だった。相手からの返事をまるで期待していない声は慣れっこだった。
僕等も彼らと言葉を交わすように作られていない生き物になっていた。
価値観の違う数直線の上に乗っかっている人同士は相互理解が難しい。同じ国の言語を使っているのに、何も通じない事がある。

「いや、壊れへんように作ってるんで」

そう言って、楽器やグッズ類を、バスのトランクに詰め込んだ。添乗員は必要以上に乱雑にドラムケースを、ギターケースを奥に放り込んだ。暗いトランクの中で金属音が鳴り響いた。僕のテレキャスターが泣いていた。

ぎゅうぎゅうと音が聞こえてきそうな狭い座席に身体をねじ込んで目を瞑る。自家用車と違い、高速バスは関西から新宿まで九時間はかかる。
エンジン音と滑走する音だけが、定期的に聞こえる車内で、長い旅路をじっと過ごす。会話を禁じられてもいないのに言葉が出ない。周囲の乗客に扇動された無言を守りながら、新宿へと護送された。

時間の感覚は故障しながら夕刻、新宿の西口に吐き出された。ため息をつきながら、ようやく四人でこぼれ話が出る。
タバコが吸いたいメンバー、眠りたいメンバー、奪われていたそれぞれの欲と自由と時間を一つずつ取り戻していく。
帰還するたびに肩か腰、どこかしらが痛んだ。だが疲れて体操をする気にもならない。

高速バスは新宿から出て、新宿へと着く。このせいで、気付くとライブ前に「新宿から来ました」と名乗っていた。これは名残で今も続いている。

僕はそこから一時間、小田急線に揺られて住んでいた町に向かう。時刻は帰宅ラッシュだ。

バスが地獄なら、地獄以下の満員電車に乗り込む。背中には楽器を持っている人間に対する殺意が、一気に降り注ぐ。
聞こえてくるサラリーマンの舌打ちに心で頭を下げながら、意識を空よりも高く飛ばす。
無意識に涙が込み上げてくる。

到着するも駅から家までは歩いて二十分かかる。
荷物と楽器で叩き割れそうな肩を、地面と平行にして歩く。

その頃には、たちまち暗い夜が重たい幕のように降りてくる。
二十四時間前にライブが始まる前にかかっていた幕を思い出していた。

幕が開いた後の僕等の演奏と、待ってくれていた数少ないファンの人達を思い出しながら、ペースを保って直線の国道沿いを歩いていく。

地球から落っこちそうになりながら、まっすぐ歩く。少しでも足を滑らせたら、地球から黒い空に真っ逆さまに落ちそうで怖い。しかし、ギリギリを歩きながら、確実に歩を進めていく。
いつの間にか家に着いていた。明日は朝からアルバイトがあるので、十時間後に新宿へと逆走する。

思い返しても、僕等はあの頃を呑気に過ごしていなかった。
心が暗くならないように努めながら、しっかりと確実に怯えていた。未来や、目の前のおぞましさに、ちゃんと恐怖しながら、四人で身を寄せ合ってきた。限界値の近隣に生息しながらも死なないでやってきた。

そして何かに期待しながら、その日その時を小さく、静かに燃やしていた。その火は幾度も水をかけられ、何層もの風を吹き付けられてきた。だが、それらを超えながら、守ってきた。今日もその火を守り続けている。


音楽を初めて、続いている事の理由を忘れないために作った曲の事

自信を失くすと自分を見失い、途方にくれる。

僕がその感覚に初めて滑り落ちたのは十四歳の頃だった。

 

 

中学生活も二年目になり、難易度が苛烈する勉強の反動か、教室内で横行するイジメまでが、つられて苛烈していた。

 

僕自身はイジメの被害者でも加害者でもなかったが、学校は面白くなかった。ロクに友達がいなかったので、基本的には学校は眠る場所になっていた。

教室は見たくもないものが氾濫し、罪状が無くても残忍さだけで捕まえといた方がいいんじゃないかと思う人間が腐るほどいた。もはや目を閉じている方が楽だった。

 

来る日も来る日も眠っていた。しかし、それを気に留めるクラスメイトもいなかった。誰とも言葉を交わさずに一日が終了する事がザラにあった。

もしも教室の扉が自動ドアなら開かないんじゃないかと思う程に、僕は教室で認識されていなかった。そんな仲間も敵もいない教室で眠り続け、一人苦しんでいた。

悪だと分かっているイジメに対しては何も出来ず、それどころか人と関わる事もしない毎日は、自分がこの世に存在している必要性を見いだせなかった。

思春期特有と言えばそれまでだが、本人にとって苦しいものは苦しい。十四歳の僕は確実に苦悩し、葛藤していた。

 

そんな中、意外にも僕は野球をやっていた。チームプレイが、何よりも大切なスポーツをやるような人格ではないにも関わらず、バットを握っていたのだ。

 小さい頃は本当に野球が好きだった。地元神戸には将来、大リーグ史上に残る大記録を打ち立てるイチロー選手がいた。神戸では皆がイチローに憧れては野球を始めた。

 

しかし、中学生の部活動と化した野球はひどくつまらないものだった。好きなものがつまらなくなる時はいつもゆるやかに、自然に老衰していく。決定的な理由があって嫌になるわけではない。細かい事が積み重なり、段々と全てが嫌になるのだ。

 

ダウンスイング信者だった指導者の教員はホームランを打った生徒よりも、自分の提唱するスイングで、サードゴロを打つ生徒を可愛がっていた。その思想がどうという事ではないが、もしも自分がホームランを打った生徒だったら「これはたまらないな」と思っていただろう。

アッパースイングで凡退でもしたら、怒り狂いバットを投げつける監督はバットの扱い方よりも自分自身の心の扱い方に問題があった。

また、僕の中学は近隣にある二つの小学校の生徒が、自動的に進学してくる公立校だったので部員の数も多く、やりきれない派閥も多かった。それらは部活内にも如実に反映された。

そして勉強した後に練習に出ないと怒鳴られ、先輩からは理不尽な暴力が飛んできた。

 

 一人の帰り道はいつも、怒りと憎しみで、全身が震え、悲しさと絶望感で、体内の血がすべて、沸騰するような感じがした。

そして少しずつ僕の中の野球熱は溶解していった。一方で好きなものさえ嫌いになってしまう自分が嫌だった。だが心はもう滑り出していたので、止まらなかった。

 

その年の夏はとても暑かった。毎日が耐えきれないほどの暑さと、耐えきれないほどの長さで構成されていた。

 その日も練習を放り出して、まだ嫌がる肺にマイルドセブンを叩き込みながら下校していた。

未成年でもタバコが買える時代が、良いか悪いかは分からないが、少なくとも僕はこの禁じられた行為を一人で楽しむ事に、後ろ暗い高揚を覚えていた。

 

往々にして身体に悪いものは魂にとって嬉しいものが多い。そして読んでいた小説の主人公が未成年で嗜んでいたマイルドセブンはどうしようもなく格好良く見えた。

 

 この主人公はマイルドセブン以外にもギターというアイコンを持っていた。情報統制された全体主義国家に生まれ、音楽の自由が禁止されている国で、ロックンロールをプレイする彼は僕の最初のロックスターだった。

 

分厚いその本を何度も読んでいるうちに、自分の中で、野球部や教室が全体主義国家の政府の悪者に見えてきた。思想にがんじがらめになり、思いやりを無くした人々は愚かしく見えた。

 

部からは次第にフェードアウトしていき、いつの間にか、顔を出す事は無くなった。

代償としての制裁だと言わんばかりに、野球部員からの嫌がらせや、陰口が降り注いだ。色んな病気だと言われた。鬱病でも中二病もいいが、いつも世の中は、人を簡単にひとまとめにして攻略した気になる。

野球人口を増やしたイチローは、神戸の少年達に夢も与えたが、影も与えたのかもしれない。

 

夏の終わり、毎日を無気力に過ごしていた僕は父親に、三万円のアコースティックギターを買ってもらった。YAMAHAのFS-325という、もう非売品になっている機種だ。

何度読み返したか分からないその本に感化され、自分でも何か行動を起こしたかったのかもしれない。

せめて自分の中に陣取る気持ち悪い塊を吐き出したかった。それには武器が必要だった。

 

好きなミュージシャンがいたわけではないのに、ギターを買う人は少ないと思う。僕は実在するヒーローではなく、小説の中にいる架空のヒーローに憧れてギターを手にした。

後に好きなミュージシャンは数え切れないほどに出来たが、始めた当初は殆どいなかった。そもそも音楽を好んで聴いたりはしていなかった。

 

完全にゼロから始まった音楽人生だった。

ひたすら自作で曲を作っていた。弾く曲も無いし、有名な練習曲は覚える手間が面倒だった。それにそもそも僕は何かを吐き出したくて、ギターを買ったのだ。そこに他人の曲は要らなかった。

 

音楽的な作法、ルールは何も分かっていないが、言葉は湧き水のように溢れていた。言いたかった事や、鬱屈していた感情はメロディに乗り、毎日ノートに吐き出された。

 

作品としては不出来だったと思う。それでもこの世に無い物を生み出し、記録していく行為は自分自身の存在を強く認識できた。

自分が生まれてなかったら、生まれなかった曲があるという事実は、嫌な事、つまらない事全てから乖離させてくれた。

リスナーが一人もいない音楽は、狭い部屋の一室で、猛烈なスピードで生産されていた。どんどん学校に行く日は減っていき、食事を摂る回数も減っていった。

もはや祈りを捧げるように書いていたと言っても過言ではなかった。書いたものが何かを叶え、日常ではない、どこかに連れて行ってくれると信じて書いていた。

 

ひたすら作っていると五十曲を越えたあたりから、作った曲が、似通ったものばかりである事に気付いた。端々は違うのだが、どうしても類似点が気になる。それは自分の中の音楽の引き出しが完全に底をついた瞬間だった。始めて一年弱でバックグラウンドが無いツケが回ってきたのだ。早くも僕は音楽家として焼け野原となった。

 

待っていても新たなメロディもサウンドも出てこないので、言葉が出てこない。魂の代謝が低下していく感覚がみぞおちの下辺りで、鈍く振動していた。吐き出せない時間は、息が詰まる心持ちだった。

 

新しい作曲能力を手に入れるという必要にかられて、アメリカやイギリスの音楽を聴いた。先人から技術を学ぼうと思ったのだ。今もマッカートニーが言った「オリジナリティは模倣から始まる」という言葉には強く同意している。

 

何から聴いてもかまわなかったのだが、小説の主人公もブルーススプリングスティーンを敬愛していたので、僕もそうする事にした。

 

ブックオフの中古コーナーで、スプリングスティーンとニールヤングとビートルズを買った。セール品で安かったのもあるが、小説の中で名前が登場したからだ。

古くさい音楽だろうな。ぐらいには思っていた。

しかしそれはもう、圧倒的だった。洗練されたメロディに、タフな演奏。七十年代、八十年代に作られた作品が、僕にとっては最新だった。

 

その日を皮切りにひたすらロックミュージックを聴き続けた。とても楽しかった。楽しいだけではない喜びに包まれた。

ロックミュージックを聴いていると、あの日の帰り道とは、全く違うエネルギーに満ち溢れた血の沸騰、興奮を感じられた。

なんというか離れた時代、離れた国にも、自分達の存在を、ただ音楽に燃やしていた男達が存在する事が、嬉しくなっていた。

 

僕はずっと一人で枯れた感覚を焼べるように歌を作っていた。だが、同じ感覚を持って、生きている人間が世界には確かにいた。

おこがましいが、この頃の僕は世界のロックスター達に仲間意識みたいなものが芽生えていた。

 

おかしな話だ。狭い部屋で、誰にも聴かれない音楽を作っていた極東の子供が、欧米のレジェンド達にフレンドシップを感じていたのである。でも、これはもう心から感じてしまっていたので、自分でもどうしようもなかった。

 

バンド名が印字されただけの真っ白なCDや、ロンドンの路地ですれ違う人のCD、赤ん坊がジャケットのCDが毎日ヘッドホンから流れた。その間だけはソングライターに寄り添ってもらっているようだった。

自分の苦しみを代弁するような歌がいくつもあった。

学校での苦痛な時間も、延々と歌で耳を塞いでいた。学校での一人ぼっちは変わらなかったが、もう寂しくはなかった。

ロックミュージックには不思議な力があった。パーティのフィーリングや、ポジティブの押し売りではない確かな温かさがある。それはリアルで悲しくて、鋭くて優しかった。

 

聴き終わると必ず彼らの真似でしかないような曲を書き、また別の音楽を聴いてというルーティンを繰り返していた。

この一人で音楽をやっていた時間はとても大切だった。技が知らず知らず、練られ、磨かれていった気がする。

同じ事をずっと繰り返す事は非合理的かもしれないが、大きな意味があると思っている。中学高校の五年間で二百曲は作ったと思う。

 

三年生になる頃、楽器店でとある女の子に出会い。アルバムを一枚貸す事になる。シンプルな青の背景に、やたらと居心地が悪そうにしている四人組のCDだ。

 

得た能力が先人から受け継いだ賜物である事を、忘れない為に歌を書いた。

【それでも弾こうテレキャスター Track-4】ブルーアルバム | QOOLAND 歌詞

 

 

それでも弾こうテレキャスター

それでも弾こうテレキャスター

 

 

普段独りぼっちの人に届いてほしいと思って作った曲の事

今週のお題「卒業」

 

人が孤独である事を教えてくれるものが幾つかある。一つは人混み、一つは夜、そしてもう一つは悲鳴が上がらないほど痛めてしまった心だ。

 

 あの日もそうだった。

「おつかれさまでした!」

「じゃあとりあえず、持ち帰ってまた報告します!」


これ以上ない程に通常の別れの言葉。

誰が聞いてもまた次があると思う声色。

それが彼と交わした最後の言葉だった。明るく聞こえるその声を、もう少し注意深く聞いておけばよかった。 

 

 

四月になった。今からちょうど一年前も四月だった。

季節はまだ温かくなったり寒くなったりを繰り返していた。それでも四月という月の魔力は相当なものらしく、街を行く人々は昨日より薄着になったように見える。


まるでどこかの権力者が「春に恥をかかせてはいけない」と言い出したのかと勘違いしそうになる。

それほど三月三十一日と四月一日には、随分と大きな隔たりがあるらしい。

 

かく言う僕も多分に漏れずまだまだ寒い中、コートをしまい薄着で出歩いていた。すぼめた肩が痛みを伴う肩こりを誘発した。

しかめっ面で歩く新宿には春一番が吹きこんでいた。相変わらず人混みにいる程、世の中から孤立しているように感じていた。

ガードレールに腰掛けながら、年が明けてからの三ヶ月を振り返っていた。

 

一、二、三月と年が明けてからの三ヶ月間、僕は何もしていなかった。正確に言えば何も出来なかった。

ライブ活動はやっていたのだが、制作においての物事が進まなかった。契約していたレコード会社との関係値は異様に悪く、予定を先送りにされ続けていた。

会議はいつも水を打ったようで、テーブルの上を言葉が潤滑に飛び交う様子などは殆ど見られなかった。楽しくやりたくない人間は一人もいないのに、楽しそうな人間が一人もいない重たい空間が宙に浮いていた。

 

意味もなく経過していく時間は月を跨ぐ度に、頭に鈍い痛みを与えていた。何かしたくても何もできないのは苦しかった。

そして状態は整わずに予定されていたDVDとシングルのリリースが発表された。

発表はされたものの、練り上げられた流れではなかった。

しかしもはや僕らに関わるあらゆる人が疲れていたように見えた。徐々にモメる事すら減っていった。

 

好転しない関係値は、汚泥したやり取りを繰り返した。だがシングルをリリースする夏は待ってはくれなかった。梶は整わずに船は出た。

レコーディングの工程が終了した時点でもう五月を過ぎていた。発売時期まで時間が無い。本来過密する必要の無い過密スケジュールの中、プロモーションビデオの撮影は行われた。

 

撮影のプロットや段取りを会社が仕切るか自分達が仕切るかという問題に直面した。


正直なところ、音以外の仕事は任せてしまいたかった。今までもそうしてきた。さらに付け加えると、気持ちの揃っていない人達と、一つの仕事を触る作業に僕はもう辟易していた。

だが信用していないのも事実で、やれるものなら自分達でやりたかった。どちらにせよ片方が全てをやらないといけないと思った。手を取り合う事はロクな結果にならないと思っていた。

最高の形とは言えないが、眼前に最悪の形があれば避けたいのは人情だった。

 

「君らの意志を尊重したい」

 

会社のスタッフから出た言葉だった。意外だった。なんと映像の仕切りをほぼやりたいようにやらせてもらった。それも会社が折れたという印象ではなく、任せてもらえたと言っても差し支えなかった。

監督のキャスティングから内容、イメージまで、余計に手を入れられる事はなかった。

この作品を会社と関わる最後の作品にするという話し合いは済んでいたので「最後ぐらい自由にさせてやろう」という気持ちがあったのかもしれない。

僕自身も一度は意志が、統一された芯の通った映像作品を残したかった。

最後の作品にして、ようやくそれが出来るかもしれないという期待が膨らんだ。

 

撮影は順調そのものだった。

監督によるカット割は練りこまれていたが、いざ撮るとシンプルで、難しいポイントも特別無い。二日に分けての撮影となったが、最終的に予定されていたスケジュールは完璧に進み、スタッフの手際が良く、文句の無い現場だった。

撮り終えた日は気分が良かった。その直後だった。監督と一切連絡がつかなくなったのは。

 

「監督は孤独だったのかもしれない」と考えられる程の余裕はなかった。

 

電話をかけた。SNSの動向を追った。アシスタントの職場にも行った。

 

まるで最初から存在しなかったかと思う程に、監督の痕跡は完全に消え失せた。彼のアシスタントは困り果てていた。

だがそれにも増して困り果てたのは僕らだった。キャスティングを自由に決めた分、自らで負債を負う責任もあると思った。苦しかった。 


手に入りそうなものが、また直前で滑り落ちていく手触りに、寒気がした。

「もう何度目なんだ」と呟いたら降りかかった不幸が現実に起こり得てると実感できた。

また人間はよく出来ている。悲しい事が続くと何処かが壊れてしまわないように、しっかりと感情は鈍化する。 しばらく何も感じなくなった。

 

結局プロモーションビデオは完成せずに、シングルは発売日を迎えた。僕らは会社との関係値をゼロにした。

最後は誰が悪くて、何が悪いのかよく分からなかった。自分を始めとするそこにいた誰も正しくはない事だけは分かっていた。

 

夏になってしまっていた。例年に比べて暑かったかさえ、覚えていない夏だった。

 

アルバムを作る事にした。

もはや何かを失くすサイクルが、何かを作るサイクルを追い越してしまっていた気がした。

失態や喪失を、上書きしたかった。負のエネルギーを、新しいものに変えていきたかった。僕らは音楽に救いを求めていた。

そして作りすぎた音楽を外に出さないと、どうかなってしまいそうだった。

 

まだ聞き馴染みのなかったクラウドファンディングという手法を用いた制作に踏み入った。イギリスで生まれ、アメリカで発展した手法だ。

インターネットでファンに制作資金の支援を募り、支援額に合った特別なサービスをリターンするシステムだ。知った時はいかにもアメリカ人が好きそうな仕組みだと思った。

驚く事に支援額によってはレコーディングにコーラスとして参加する事や、練習スタジオに招かれる事もある。

この従来にはない程、ファンがバンドの内部に踏み込めるシステムに賭けてみる事にした。発売日を発表して与えるよりも、発売日にファンと向かっていくアルバムが必要だった。何より自分に必要だった。

 

様々なリターンに触れる中で最も影響を与えたものが「サシの弾き語り」だった。

ライブ会場で弾き語りをやれば当然だが、僕一人対複数人という状態になる。これを個室でマンツーマンでやるサービスを考えた。スタッフもマネージャーもいない完全なマンツーマンだ。

驚いたのがこれに申し込み、支援してくれた人達はあまりLIVE会場に来るような人ではなかった。勿論普段見る人もいたが、遠くから新幹線や飛行機で来てくれる人もいた。

 

十人にマンツーマンで歌を歌わせてもらった。その人達と直接話し、歌う事はとてつもなく大きい経験だった。

 

「会場には行けないけどCD全部持ってます。だからこうしてアルバムを作ってくれて本当に嬉しい」

 

という人がいた。冒頭に書いた年が明けてからの活動では何も届けられなかった事になる。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

LIVE主義、現場主義の昨今の音楽シーンの事情において、珍しいスタンスの人かもしれない。僕も眼からウロコがバリバリ剥がれる感覚だった。

そしてその衝撃を超えて、本当に嬉しかった。歌う際に高揚し過ぎて、リズムが普段より荒れていた事を申し訳なく思う。

 

話した事を一生忘れられなそうな人もいた。

 

「死のうと思っていたところに生きる力を貰えました」

と言った人だった。

 

頭は撃ち抜かれたような衝撃に見舞われ、自分が動揺しているのか、感動しているのかすら分からなかった。


初めて会う人だった。

会場でも見かけた事のない人だが、ずっとCDを聴いてくれていたと話してくれた。その人と話していると救う事は出来ないけど、僕の作ってきたものが「手を貸す」ぐらいのものにはなれていた。

自分の音楽に、正面から返事を貰えた瞬間だった。僕が書いた言葉は、その人の中できちんと呼吸をしていた。

歌う事が難しくなる程の鼓動が鳴った。胸の奥がどこかに吸い込まれそうで、猛烈に痛くなった。声が出ずに何度も歌い出しをやり直した。「孤高の人」という曲を二回も歌った。

 

死のうと思っている人も、生きようと思っている人も社会には沢山いる。

社会という山で遭難しているか、登山しているかの違いだけだ。

しかし道を失えば、誰もがたちまち遭難する。生きたい日の合間に、死にたい日は突如挟まってくる。それは予告無く差し込まれ、突如降り注ぐ。


僕も獣道ばかり歩き、遭難と登山を繰り返してきた。

だが道を失くす度、死にかける度に、手を引いてくれる他のクライマー達が常に側にいてくれた。息が出来ない日には、酸素ボンベのバルブを開けるように音楽を作ってきた。


本当は一人ぼっちでない事を、千切れそうな痛覚の中で自覚してきた。淀み、病んだ心から生まれたものが明日の自分を癒していた。そしてそれは確実に他者に届いていた。

 

普段僕らは孤独だし、間違う。そして間違う度に死にたくなる。だが、そんな沸き立つような痛みがあるからこそ、隣りの存在や掛け替えのないものの価値を知る。

 

願わくば自分の音楽が響いた人達と、一緒に死にたい日を超えていきたい。

普段が独りなら、たまには誰かが他人じゃなくなる夜があってもいい。

 

監督にしてもそうだ。

いなくなった理由は独りだったからかは分からない。

それでも独りの人が今以上に独りにならないように、普段独りぼっちの人に届いてほしい。


そんな願いを込めて「一緒にやろう」「一緒にいよう」という意味合いのタイトルを付けて歌を作った。

 

https://www.youtube.com/watch?v=M9IXjSTskPU

 

COME TOGETHER

COME TOGETHER

 

 

 

将来線路に飛び込まない為に作った曲の事

今週のお題「好きな街」

 

 

レールと車輪が断末魔のような音をあげ小田急線は緊急停止した。

 

「ただいま人身事故発生のため運行を見合わせております。お急ぎのところ大変申し訳ありません。」

 

アナウンスが鳴り響くと同時に乗客のため息と舌打ちが聞こえてきた。この人口密度のせいか彼らの落胆と苛立ちはあまりに鮮明に伝わった。

 

「すみません。人身事故がありまして、着くの遅れそうです。すみません」

 

目の前のサラリーマンとおぼしき中年は謝罪に始まり謝罪に終わる日本語をスマートフォンにぶつけている。座席のOLは事故発生前にしていた化粧のチェックを事故発生後も継続している。

 

十五分後電車は動きだし、彼らと共に新宿駅のホームに勢いよく吐き出された。

 

到着と同時に走る者もいれば駅員から遅延証明書を受け取り歩く者もいる。下車後ただただそれを見ていた。その風景を見つめていると不思議と足が前に出なかった。

押し寄せる人の波は僕の胸に次第にやり場の無い悲しさを放り込んで来た。その心臓が鷲掴みにされているような閉塞感は今までに味わった事のないものだった。

 

彼らの足は前に進んでいた。速度の違いはあれど誰もがそれぞれの目的地へとつま先を踏み出していた。それを見て僕は彼らが何かを守っている事に気付いた。一人で暮らす者は自分を。家族がいる者は家族を。夢がある者は夢を。皆何かしらを守るためにそれなりに我慢して折り合いをつけながら日々をやりくりしている。

しかし朝は彼らの体調や事情を汲む事は決してせず、ひたすらに日々を投げつけてくる。誰もが苦しさを誤魔化しながら逃げもせずに黙々とそれを打ち返している。

 

新宿駅は皆自分の事で精一杯だった。視界は自分の身を守るためだけの広さに集約されていた。そんな中、今日は運の悪いやつが一人亡くなっただけの話。そう言いたげな風景だった。

 

勿論今日だけではなくこの国の何処かで昨日も一昨日も誰かの命が散っている。

我が国には年間に万人もの自殺者がいる。行方不明者を合わせると倍以上の数になる。残念だが先ほど起こった事は別段珍しい事ではないのが事実だ。

 

僕はそれでも立ち尽くしていた。

 

「今日死んだ人だって1年前まではこうして背筋を伸ばして新宿を歩いていたんじゃないだろうか」

 

そう思うと目の前で今日に立ち向かう新宿駅の人々が急に綱渡りをして毎日を繋いでいるように見えた。彼らがいつ落ちるかも分からない太さの綱を猛スピードで行き来しているような感覚だった。

 

年間万人と書くと一言だ。しかし人が死んだ事象365日だけで3万回あったと考えると陰鬱な気分は僕の臓物全域に散布された。彼らには家族もいたかもしれない。恋人がいたかもしれない。夢があったかもしれない。それこそ新宿駅の人々同様に何かしらを守ろうとして戦っていたかもしれない。普通に考えればそうでしかなかった。

 

人一人の人生が終了する。機械が壊れたのとは訳が違う。人生にはそれぞれの心があり、それぞれに関わった人々がいたはずだった。平凡なんてものは実際この世には皆無でありそれぞれのドラマが人の数だけ存在する。

 

だが心は破れさり散った。自分が乗っていた電車に飛び込んだ誰かの命が散った。

その出来事の重さに反比例して通常運転の新宿駅はあまりにリアリティが無かった。しばらくしても心は鈍く痛み、風邪のような耳鳴りはやまなかった。

 

人が多すぎる程多い東京の中でも死ぬ時は皆一人だ。当然だが悩みが悩みだけに気軽に相談などできなかったと思う。相談しても止められると分かっている悩みなど相談事として成り立っていない。人は皆一人で孤独に散っていく事を如実に表している事実だ。

 

では飛び込む時怖くなかっただろうか。今日までは守ってきた「何か」がもう二度と守れなくなった事は悔しくなかったのだろうか。守り続ける苦しさよりもたった一人で死の恐怖を選択した彼はどんな思いで死んでいったのだろうか。

 

そして誰が次の年の万人になるかは本人にさえも分からない。目の前の走る人も歩く人もそれを見ている僕自身も綱から落ちる可能性がある。そう考えると胸が千切れそうになった。死にたくなかった。生きて今この時よりも人生を良くしたいと思っていた。

 

気付くとアルバイト先に行く時間はとうに過ぎ、スマートフォンにはフィーバーしたパチンコのように電話がかかってきていた。しかし動けなかった。僕はもうなんとなく働く気になれなかった。

 

ひたすら歩く事にした。

新宿から代々木上原。下北沢、下北沢、新百合ケ丘へと歩いた。歩いていると耳鳴りがやむ気がした。定期的に訪れる金属と金属を叩きつけたような踏切の音を手掛かりに線路沿いを歩いた。足の感覚が無くなるまで歩き続けた。

 

気付いたら空は次第に暗くなり、まるで僕の体調や事情を汲むかのように陽は落ちた。

その落陽は何もしたくない人間にとって唯一訪れる安息の瞬間を映像化したかのように見えた。

 

二十三歳になる上京したばかりの春の事だった。

 

その日の事を歌にしたら少し心が楽になった気がした。

https://www.audioleaf.com/artist/player/qooland/

誰でもいいわけじゃ無い事を忘れない為に作った曲の事

今週のお題「好きな街」

 

「もしも優勝するとなるとこちらから一年以内のリリースをお約束して頂かないといけませんがそちらは問題ありませんか?」


「はい。問題ありません!」

「では……!」
 
 
やけに間が長い。
 
 
「おめでとうございます……! 今年の優勝者として是非よろしくお願いします!」

「ありがとうございます!」
 

遠回しすぎるその電話は、応募していたコンテストの優勝を告げる朗報だった。
自分の音楽、仲間と何かを削り合って宿した毎日がその道の権威に認められた。その喜びはまさしく盆と正月が同時に来たと言わんばかりだった。
それなのに窓に映る六月の空模様は灰色に染まり、生温い風は紫陽花の葉を不景気そうに叩いていた。
 

二〇一三年の夏は例年より気温も高く湿度も高かった。
TVからは熱中症で倒れた高齢者のニュースが毎日流され、大手コーヒーチェーンの売り上げはうなぎ登りだった。
そんな年に僕はとあるコンテストでグランプリを獲得し、経験した事のない人数の前で演奏する機会に恵まれた。
 
楽しかった夏が終わると、今まで僕らに見向きもしなかった音楽関係の会社やレコード会社が数多くやってきた。

受賞前と後で作った曲が変わったわけでもない。それなのに突如評価された違和感に複雑な心持ちもあった。結果を作る事より結果を数える事しか出来ない人間の目が怖かった。
だがそれでもやってきた事が認められた事は嬉しかった。自分と仲間が必要とされている事実は紛れもない高揚を覚えた。そんな奥歯に物が挟まったまま、ご馳走を食べているような悩みを抱えながら僕は歩みを進めていた。
 
年間に百本を超える公演スケジュールの中、一緒になる会社が決まった。会った回数や大手特有の具体性のある話は魅力的だった。
レコーディングスタジオのグレードは町の安スタジオから激変し、メディアの露出も急増した。初めての経験が多く、最初は大変な事も多いが楽しかった気がする。そこから十五ヶ月の短い期間で六作の音楽、映像ソフトを制作する事になった。
 
しかし現実は厳しく僕と会社との溝は深まる一方だった。音楽会社と言えども会社のスタッフは言わば一般的な会社員になる。話をしていくだけでも大変な苦労が連続した。だが触り合う音楽は一つだった。

言われている事が分からなく、分かったフリすら出来ない事が増えてきた。本を逆さにして後ろから読めと言われてるような違和感と価値観の違いに泣いた。

一方、公演スケジュールは年間百本以上から変わらないというのにリリースやメディアの仕事は常に回転していた 。身体や心はパンク寸前になっていた。

アーティストと会社がうまくやれなかったという話は古今東西、無数にある。自分達も例に漏れずそうだったというだけの話だ。
もはや原因も理由も分からないし、どちらが悪いという話でもない。と言うよりは考える事にも疲れていた。少なくとも自分の好きな音楽で、関わる人を苦しめている事は分かった。それだけが悔しく、悲しかった。
そしてそれぞれの言い分を言えないまま全員が他人通しの夜を超えて、僕らのチームは進んでいった。
 
未来永劫続くとも思われた変わらない状況と吐き出せない感情は日々募っていった。僕は陽が沈むように、ゆるやかに、そしていつものように壊れていった。
苛立ちは醜く形を変え、様々な方向へ放たれてた。僕の心の弱さは次第に自分から他人、そこら辺に置いてあるもの、無関係なものまでに及んだ。
壁を殴れば叩きつけた拳の肉が裂け、骨が軋んだ。口を開けば本心なのか分からない事しか言えなかった。
それでも頭で考えるよりも先に、心と身体に導かれて行動していた。アドレナリンのせいで痛覚は麻痺し、傷が開いた手の甲はやけに遠くに見えた。割れるような頭痛を振り払うための打撲が多くなった。
作る音楽の中にしか本心が宿らなくなっていった。「言えない人が言えてたら」という歌の詞を五十分弱で書き上げた日があった。

また毎日のように新宿でよくない酒を煽っていた。自分が窒息している事にさえ気付かなかった。不味くつまらない癖になぜか飲んでいた。
街ではくだらない人間と付き合って、くだらない人間になったと思った。それもいいと思った。
自分の人生から段々と臨場感が無くなるのを感じていた。それでも足を止めたくはなかった。絶望が闘志を飲み込んでしまいそうで、それは許せなかった。
 

春が来る頃に熊本で一本の公演があった。
同時間、近いエリアで幾つものアーティストが演奏し、リスナーは好きなステージが観れる。バイキング形式の「サーキット」と呼ばれるライブイベントだった。ここ最近の音楽シーンにはよくある形態らしく様々な土地で行われている。
 
僕らの出演と同時間にも様々なアーティストが演奏する事が決まっていた。初めての熊本でリスナーを集める事は困難だと思っていた。わざわざ飛行機でガラガラのフロアに向かって歌いに行くのかと思うと気が重かった。自分の心が集中しているのか拡散しているのかよく分からない奇妙な感覚だった。
 
いざ当日ステージに立つと気持ちが折れかけた。二百人程入るスペースに十人程しかいなかったのだ。そんな客入りで演奏するのは久しぶりだった。しかも日本の端っこの熊本県だ。
胃が収縮するような倦怠感が全身を包み込みそうになった時、ふと客席を見ると僕の目を引く顔があった。普段近畿、中部のライブに来てくれているファンだった。初めてライブハウスに来た中学生のように目を輝かせステージが開けるのを待っていた。
 
驚いた。
 
本土ならいざ知らず、熊本に来てくれている。年間に百本もやっているのだからいつでも観れる。こんなところまで自分の音楽を聴きに遠出してくれる人がいる事に驚きを隠せなかった。その映像は一瞬網膜に焼きついただけだった。それでも相次ぐ苦しさに気持ちが切れかけていた自分の情けなさと心細さに温かく流れ込んだ。余分な感情が溶け出す感覚を覚えた。たった一人の存在のありがたさに胸が熱くなった。
 
好きなもので何かを成した証が欲しかった。
大手に所属する事で手に入るものもあった。
 
だがそんな事が増えすぎて一番大切なものが見えなくなっていた自分の愚かさを知った。気付くとライブは始まっていた。オーディエンスは十人程度しかいない。でもその十人にとって少しでも意味あるものを残したかった。
 
一曲歌う度にオーディエンスが増えている気がした。もう一曲歌うとフロアの半分が埋まっているように見えた。実際に増えていた。
休んでいる客に様子が伺えるように、TVモニターが設置されライブは永続的に中継されている。それを観て来たのかは分からないが、他のステージから三角州の激流のように人が流れてきていた。
 
ライブの最後には二百人のフロアに規制がかかる程の満員になっていた。
植物のように無感覚だった神経が、乾燥した冬の感電のように過敏になっていくのを感じた。「しびれるライブだった」という高校生の頃に読んだ雑誌に載っていたカナダのミュージシャンのコメントを思い出した。
 
嬉しかった。
喜びで世の中が明るくなったように見えた。自分の心が身体を通して、知らない街の人の心に突き刺さった。その二百人のフロアは今まで見たどんなステージよりも輝いて見えた。そしてそれは最初に居てくれた十人がいなければ、決して作られるものではなかった。日本の端である熊本という街で東京では学べない大きな事を教わった。
 
 
それから数日後、レコード会社を離れる事が決まった。円満にだ。ただ自分が歌を届けたい対象が明確に分かったおかげでかかっていた靄が晴れたように思えた今、必要性を感じなかった。
 
当然大きいステージやトップチャートを目指している。それとは矛盾するかもしれない。でも僕の音楽は誰にでも届けば良いわけじゃないと気付いた。
 
流行り廃りを超えて一番大切だと思ってくれる人が一万人が集まった風景を見たい。そんな事を忘れない為に歌を作った。
 

 

COME TOGETHER

COME TOGETHER

 

 

失くす事から目を背けない為に作った曲の事

お題「マイルール」

 

大切なものを失う。という感覚を最初に知るのはいつだろうか。幼児の頃だろうか。それとももう少し成長した頃だろうか。思い出す事ができる者は稀だと思う。

 

 

海馬を掘り返すように記憶を探ってみると、鮮明に覚えている一日がある。小学一年の頃だ。飼っていたジャンガリアンハムスターが老衰で死んだ。

僕の住んでいた町は両親の実家と離れていた。さらに複合家族ではない家に育った僕にとって、祖父や祖母の死、仏壇などは身近な存在とは言えなかった。そんな僕にとって最初の命の消失を教えてくれたのは小さなペットだった。

この前まで所狭しと走り回っていたペットはある朝、全く動かずに横たわっていた。材木のように取り扱い易くなったその体は、昨日まで生命が宿っていたとは信じ難い程だった。

ただただ悲しかった。その独特の神経を握り込まれているような胸の痛みは今も覚えている。そして脈々と波打っていた生命が終了した現実を象徴するかのような横たわる小動物はひたすらに痛ましかった。

 

僕は幼い頃から大人に従順な子供ではなかった。もっと言えば大人に対し、侮りに近い感情を抱きながら毎日を垂れ流していた子供だった。その考えからかペットを失った悲しみを伝える事はしなかった。

この心の痛みは打算や面子で生きる親や教師に理解はできまいと決めつけていた。

 

その次の年だった。

遠く離れた場所で父方の祖父が息を引き取った。癌による病死の数え年は七十七だった。

前述した通り身近とは言えなかった祖父の死はどこかピンと来なかった。会った事も数度であったし、悲しもうにも悲しみようがなかった事を覚えている。

 

葬儀の日がやってきた。

まだ出来たばかりの明石海峡大橋を渡り、淡路島を越えていく。この半年後に震源地になるとは露知らず神戸の海は穏やかだった。

 

僕にとって人生で経験する初めての葬儀となった。

出席者達の身を包んでいた黒服が印象的だったが、葬式と言えばもっと厳粛なものかと思っていた。式が始まるまで大人達は祖父の生前の話を肴に、楽しそうに酒を酌み交わしていた。意外にも笑顔が飛び交い、特別消沈もしていない雰囲気は不謹慎にも見えた。

その光景を見てやはり大人は打算や面子で生きている薄情者だと思った。命の消失に寄せる灰暗い虚無感という感性を持つ自分とは違うと軽蔑した。繊細さは年齢と共に失われるのだと感じていた。

 

暫くして式が始まった。

経が読まれ木魚の音が大部屋にルーズに鳴り響いていた。話に聞いた事はあるが当然初めて見る儀式だった。だが特別興味をそそられる事も無く、一刻も早く帰りたい気持ちが大きくなっていた。

退屈によそ見ばかりしていただろうか。ふと横を見ると父親が泣いていた。父の涙を初めて見た。

釣られたか否か分からないが、気付けば他の大人達も泣いていた。大勢の大人が集まり泣いているという光景は衝撃だった。噛み締めるような嗚咽を上げる彼らに動揺した。そんな僕を置いてけぼりにするかのように式は進行した。

祖父を極楽浄土に誘う経は後半を迎えつつあった。ふすまから差し込む傾いた陽が綺麗だった。その日の全てを悼むように燃えていた。

 

帰りの車の中、ボンヤリと考えていた。

 

「大人はそう易々と悲しみを顔に出せないのかな」

 

冷徹、諦観主義、無感情、守銭奴。そんなイメージばかりだった。

しかし大人には大人の事情があって、泣きたくてもそう簡単に泣く事が出来ないのかもしれない。そう思うと大人が何となく仲間になったような気がした。

訪れる悲しみに彼らも納得をしているわけではない。だが後ろばかりを見ているわけにもいかない。僕は自分という小さな存在が、その営みの中で生かされている事を感覚的に知った。

 

それから十年後に僕は両親と暮らす事と住んでいた町を失う事になる。

様々な事情で実家に住めなくなり、大阪で一人で暮らさなくてはいけなくなった。この急遽訪れた両親や地元との離別は改めて「失くす」という出来事の無情さを思い知った。だが泣いているばかりでは生きてはいけない。

 

今僕が兼ね備えているもの全てに永遠は無い。

歌を作る事を延々と続けてきているが、いつ何時この能力を永遠に失うかは誰にも分からない。そして信じているものが側から離れていく事は今までも無数にあった。その度に心の強度が増せば良いのだが、そんな事はまるで無く、つらい事件に幾度となく僕は砕かれた。

 

もう人間をしばらくやっている。

段々と掴めるものが幾つも無い事が分かってきてしまった。あれもこれも手に入れる事は出来ない。

だが無情にもたった一つの事ですら抱きしめていくには生半可じゃない努力がいる。そしてそれすらも力及ばず運及ばず、手から滑り落ちる事がある。

しかし「いつか消えるから信じるのをやめる」「いつか失くすから護るのをやめる」という理屈に感情が導かれた事は一度もない。人は必ず失ってしまう。それを大人達は知っていた。それでも日々懸命に失くならないように足を前に運び、手は何かを掴もうとしていた。

 

僕も大人になった。 あの日泣きたくても簡単に泣かずに生きていた大人達になれただろうか。少しでも近づきたくて歌を作った。

 

【それでも弾こうテレキャスター Track-3】大切なお知らせ | QOOLAND 歌詞

 

それでも弾こうテレキャスター

それでも弾こうテレキャスター

 

 

護られている事を忘れない為に作った曲の事

頭上の雲まで茜色に染まったかと思うと、次の瞬間には夏の夕闇がにわかに濃く迫ってくる。そんな表現がよくよく似合う、時間の流れがやけに早い一日だった。もう二十年以上前の事だ。

 
 
人生には数多くの節目がある。
その中でも幼児から小学生になるタイミングは誰の身にとっても指折りの節目なのではないだろうか。
六つも上の人間が先輩として君臨し、勉強や運動で競争を強いられるようになる。温室でぬくぬく育ったそれまでの社会と比べると圧倒的大人の社会であり、厳しくも自分の可能性を試す世界だ。
そして目に映る一つ一つに感動を禁じ得ないほどには、幼すぎる多感な時期でもある。
 
入学したばかりだった僕の目にはあらゆるものが新鮮に見えた。
街路樹の木々は背丈よりも遥かに高くそびえ立つ塔のようで、落日に彩られ光を呼吸するように赤く燃える雲はオーロラよりも美しかった。
 
日々は重ねるのに大人になった今よりも時間がかかり、一日一日が長く感じた。だが確実に少しずつ進んでいき、人生初の夏休みが間近に迫ったある日の事だった。
 
知らない町に足を運んでみようと思った。
 
知らない町と言っても自宅のある六丁目から、四丁目に行くというだけの話だ。距離にすれば三キロもない。
それでも僕にとっては初めての冒険であり、一人きりで振り絞ったちっぽけな勇気だった。両親に手をつながれて、遠出するのとは全く別次元の興奮に胸の奥がきゅっとするのを感じていた。
通りの先に何があるのか。もっと素晴らしい世界が広がっているんじゃないか。
その期待から衝動を我慢せずに僕は家を飛び出した。
 
その日は土曜日だった。
学校は午前中で終わり、午後二時過ぎに家を出た。知らない道をどんどん進んでいった。
空は青く、地面はどこまでも繋がっていて、世界の果てまで到達しそうだった。焦る気持ちからか、赤信号で足が止まる度に一秒は十秒にも感じられた。
 
大通りを跨ぎ、区画を越えていく。
立ち並ぶ家の様相は別の国に来たんじゃないかと思える程に一変した。坂道が見えてくる。その大人にとってすれば、軽い傾斜だ。それでも僕にとっては最大の難所であり、永遠とも思える急勾配だった。
 
初めて見る一つ一つの風景に感動していた。
言葉にすると消えてしまいそうな淡い感動を胸にしまって、足の赴くまま世界の果てを目指した。
しかし一方で陽射しは宵闇に追われ、次第に周辺は濃紺へと変わろうとしていた。
 
空が暗くなるにつれ、僕の心にも得体の知れない暗いものが広がっていった。そのぐらつく椅子に座っているような心許なさは、徐々に足取りを重たくした。
うすうす勘づいていたが、怖くて気付かないふりをしていた。ようやく観念して、辺りを見回した。見た事もない風景が広がっていた。もはや自分が何処まで歩いたのかも、何処にいるのかも分からなかった。
 
とんでもない事をしてしまった気がした。
このまま二度と家には帰れないような恐怖感を感じながら、帰り道を目指した。だが前方を大きく包み込む暗闇は膨張する宇宙を思わせ、不安と寂しさからその場にへたり込んでしまいそうだった。
上空に浮かぶ月や一番星を頼りに歩く漫画の知識は、何の役にも立たなかった。理不尽にも僕がそんな主人公や作者を呪った頃、時刻は夜の六時を過ぎていた。鳥の声が不気味に町に鳴り響いた。
 
棒と化した足を使い、ただただ勘を頼りに家路を目指した。帰路の検討はつかず、家を出た時には世界の果てまで繋がっていたはずの歩道は、僕の家にだけは繋がっていないのではないかとさえ思えた。心は不安に押し潰され、泣きながら誰一人存在しない暗闇を歩いていた。
 

そんな時だった。前方に人影が見えた。僕を呼ぶ声が聞こえた。母親だった。
 
 
人生史上最大の生命の危機を感じていた僕とは対照的に母の反応は気楽なものだった。夕飯の仕度が出来たのに、いつまでも僕が帰ってこないので近所で遊んでいると思ったらしい。そこでちょっとその辺まで探しにきた程度の事だった。
 
しかし、母親に見つけてもらった安堵から僕はわんわんと泣いた。初めて味わった孤独と、そこから救出された安堵感はあっさりと感情を決壊させた。
あの遠い路を駆け通してきた心細さを思うと、いくら泣いても足りない気持ちに迫られながら泣いていた。
 
それにしても人間の心というものは現金なもので、それは子供でも例外がないらしい。先程まで真っ暗闇に見えた世界が急に明るく見えてきた。
情けない話だが暗いといっても街灯は幾つも灯っているし、立ち並ぶ家の窓からは明かりが無数に漏れ出していた。
恐怖にかられれば柳の木でさえ幽霊に見えるとはよく言ったものだ。落ち着いて見上げた神戸の空の夕方は、目をつぶっていても心に届いてきてしまいそうな美しさを放っていた。
その風景と共に冒険の高鳴りと孤独への不安、そして自分を護る存在の安堵感を一度に浴びた一日を終えた。
 

この話は未だに不思議な事がある。
僕が彷徨っていた場所まで母が真っ直ぐたどり着いた事だ。
本人に聞くと「なんとなく」というあまりありがたくない解答が頂けた。だが僕の中で母親、ひいては女の人の持つ愛情というエネルギーの強力さを実感したエピソードだった。
 
 
それからも僕は人生の窮地で女の人の持つ独特の不思議な力によくよく護られてきたし、腕力などではない強さに生命そのものを救われてきた。
今これを読まれている皆様にも自覚があるやも知れないが、我々男というのはほとほと馬鹿な生き物である。子供の頃から女の子の方が考えも大人である事が多いし、どうやら反抗期も圧倒的に男の方が多いらしい。
さらに付け加えれば大人になってからもその過ちを繰り返す。
 
僕も注がれる愛情に慣れ、感謝を忘れる失態は日常茶飯事だった。当たり前にそこにあるものと勘違いし、勝手を犯す事が幾つもあったように思える。
 
正直生まれてきてから気兼ねなく勝手をやってきた。しかし自分一人では不可能だった。立てているステージを作っているのはそこに立っている人だけではない。そんな事を忘れない為に作った歌をアルバムの最後に添えた。

 

COME TOGETHER

COME TOGETHER