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都内在住

音楽を作って暮らしています。作られた時のお話を書いてます。

将来線路に飛び込まない為に作った曲の事

今週のお題「好きな街」

 

 

レールと車輪が断末魔のような音をあげ小田急線は緊急停止した。

 

「ただいま人身事故発生のため運行を見合わせております。お急ぎのところ大変申し訳ありません。」

 

アナウンスが鳴り響くと同時に乗客のため息と舌打ちが聞こえてきた。この人口密度のせいか彼らの落胆と苛立ちはあまりに鮮明に伝わった。

 

「すみません。人身事故がありまして、着くの遅れそうです。すみません」

 

目の前のサラリーマンとおぼしき中年は謝罪に始まり謝罪に終わる日本語をスマートフォンにぶつけている。座席のOLは事故発生前にしていた化粧のチェックを事故発生後も継続している。

 

十五分後電車は動きだし、彼らと共に新宿駅のホームに勢いよく吐き出された。

 

到着と同時に走る者もいれば駅員から遅延証明書を受け取り歩く者もいる。下車後ただただそれを見ていた。その風景を見つめていると不思議と足が前に出なかった。

押し寄せる人の波は僕の胸に次第にやり場の無い悲しさを放り込んで来た。その心臓が鷲掴みにされているような閉塞感は今までに味わった事のないものだった。

 

彼らの足は前に進んでいた。速度の違いはあれど誰もがそれぞれの目的地へとつま先を踏み出していた。それを見て僕は彼らが何かを守っている事に気付いた。一人で暮らす者は自分を。家族がいる者は家族を。夢がある者は夢を。皆何かしらを守るためにそれなりに我慢して折り合いをつけながら日々をやりくりしている。

しかし朝は彼らの体調や事情を汲む事は決してせず、ひたすらに日々を投げつけてくる。誰もが苦しさを誤魔化しながら逃げもせずに黙々とそれを打ち返している。

 

新宿駅は皆自分の事で精一杯だった。視界は自分の身を守るためだけの広さに集約されていた。そんな中、今日は運の悪いやつが一人亡くなっただけの話。そう言いたげな風景だった。

 

勿論今日だけではなくこの国の何処かで昨日も一昨日も誰かの命が散っている。

我が国には年間に万人もの自殺者がいる。行方不明者を合わせると倍以上の数になる。残念だが先ほど起こった事は別段珍しい事ではないのが事実だ。

 

僕はそれでも立ち尽くしていた。

 

「今日死んだ人だって1年前まではこうして背筋を伸ばして新宿を歩いていたんじゃないだろうか」

 

そう思うと目の前で今日に立ち向かう新宿駅の人々が急に綱渡りをして毎日を繋いでいるように見えた。彼らがいつ落ちるかも分からない太さの綱を猛スピードで行き来しているような感覚だった。

 

年間万人と書くと一言だ。しかし人が死んだ事象365日だけで3万回あったと考えると陰鬱な気分は僕の臓物全域に散布された。彼らには家族もいたかもしれない。恋人がいたかもしれない。夢があったかもしれない。それこそ新宿駅の人々同様に何かしらを守ろうとして戦っていたかもしれない。普通に考えればそうでしかなかった。

 

人一人の人生が終了する。機械が壊れたのとは訳が違う。人生にはそれぞれの心があり、それぞれに関わった人々がいたはずだった。平凡なんてものは実際この世には皆無でありそれぞれのドラマが人の数だけ存在する。

 

だが心は破れさり散った。自分が乗っていた電車に飛び込んだ誰かの命が散った。

その出来事の重さに反比例して通常運転の新宿駅はあまりにリアリティが無かった。しばらくしても心は鈍く痛み、風邪のような耳鳴りはやまなかった。

 

人が多すぎる程多い東京の中でも死ぬ時は皆一人だ。当然だが悩みが悩みだけに気軽に相談などできなかったと思う。相談しても止められると分かっている悩みなど相談事として成り立っていない。人は皆一人で孤独に散っていく事を如実に表している事実だ。

 

では飛び込む時怖くなかっただろうか。今日までは守ってきた「何か」がもう二度と守れなくなった事は悔しくなかったのだろうか。守り続ける苦しさよりもたった一人で死の恐怖を選択した彼はどんな思いで死んでいったのだろうか。

 

そして誰が次の年の万人になるかは本人にさえも分からない。目の前の走る人も歩く人もそれを見ている僕自身も綱から落ちる可能性がある。そう考えると胸が千切れそうになった。死にたくなかった。生きて今この時よりも人生を良くしたいと思っていた。

 

気付くとアルバイト先に行く時間はとうに過ぎ、スマートフォンにはフィーバーしたパチンコのように電話がかかってきていた。しかし動けなかった。僕はもうなんとなく働く気になれなかった。

 

ひたすら歩く事にした。

新宿から代々木上原。下北沢、下北沢、新百合ケ丘へと歩いた。歩いていると耳鳴りがやむ気がした。定期的に訪れる金属と金属を叩きつけたような踏切の音を手掛かりに線路沿いを歩いた。足の感覚が無くなるまで歩き続けた。

 

気付いたら空は次第に暗くなり、まるで僕の体調や事情を汲むかのように陽は落ちた。

その落陽は何もしたくない人間にとって唯一訪れる安息の瞬間を映像化したかのように見えた。

 

二十三歳になる上京したばかりの春の事だった。

 

その日の事を歌にしたら少し心が楽になった気がした。

https://www.audioleaf.com/artist/player/qooland/

誰でもいいわけじゃ無い事を忘れない為に作った曲の事

今週のお題「好きな街」

 

「もしも優勝するとなるとこちらから一年以内のリリースをお約束して頂かないといけませんがそちらは問題ありませんか?」


「はい。問題ありません!」

「では……!」
 
 
やけに間が長い。
 
 
「おめでとうございます……! 今年の優勝者として是非よろしくお願いします!」

「ありがとうございます!」
 

遠回しすぎるその電話は、応募していたコンテストの優勝を告げる朗報だった。
自分の音楽、仲間と何かを削り合って宿した毎日がその道の権威に認められた。その喜びはまさしく盆と正月が同時に来たと言わんばかりだった。
それなのに窓に映る六月の空模様は灰色に染まり、生温い風は紫陽花の葉を不景気そうに叩いていた。
 

二〇一三年の夏は例年より気温も高く湿度も高かった。
TVからは熱中症で倒れた高齢者のニュースが毎日流され、大手コーヒーチェーンの売り上げはうなぎ登りだった。
そんな年に僕はとあるコンテストでグランプリを獲得し、経験した事のない人数の前で演奏する機会に恵まれた。
 
楽しかった夏が終わると、今まで僕らに見向きもしなかった音楽関係の会社やレコード会社が数多くやってきた。

受賞前と後で作った曲が変わったわけでもない。それなのに突如評価された違和感に複雑な心持ちもあった。結果を作る事より結果を数える事しか出来ない人間の目が怖かった。
だがそれでもやってきた事が認められた事は嬉しかった。自分と仲間が必要とされている事実は紛れもない高揚を覚えた。そんな奥歯に物が挟まったまま、ご馳走を食べているような悩みを抱えながら僕は歩みを進めていた。
 
年間に百本を超える公演スケジュールの中、一緒になる会社が決まった。会った回数や大手特有の具体性のある話は魅力的だった。
レコーディングスタジオのグレードは町の安スタジオから激変し、メディアの露出も急増した。初めての経験が多く、最初は大変な事も多いが楽しかった気がする。そこから十五ヶ月の短い期間で六作の音楽、映像ソフトを制作する事になった。
 
しかし現実は厳しく僕と会社との溝は深まる一方だった。音楽会社と言えども会社のスタッフは言わば一般的な会社員になる。話をしていくだけでも大変な苦労が連続した。だが触り合う音楽は一つだった。

言われている事が分からなく、分かったフリすら出来ない事が増えてきた。本を逆さにして後ろから読めと言われてるような違和感と価値観の違いに泣いた。

一方、公演スケジュールは年間百本以上から変わらないというのにリリースやメディアの仕事は常に回転していた 。身体や心はパンク寸前になっていた。

アーティストと会社がうまくやれなかったという話は古今東西、無数にある。自分達も例に漏れずそうだったというだけの話だ。
もはや原因も理由も分からないし、どちらが悪いという話でもない。と言うよりは考える事にも疲れていた。少なくとも自分の好きな音楽で、関わる人を苦しめている事は分かった。それだけが悔しく、悲しかった。
そしてそれぞれの言い分を言えないまま全員が他人通しの夜を超えて、僕らのチームは進んでいった。
 
未来永劫続くとも思われた変わらない状況と吐き出せない感情は日々募っていった。僕は陽が沈むように、ゆるやかに、そしていつものように壊れていった。
苛立ちは醜く形を変え、様々な方向へ放たれてた。僕の心の弱さは次第に自分から他人、そこら辺に置いてあるもの、無関係なものまでに及んだ。
壁を殴れば叩きつけた拳の肉が裂け、骨が軋んだ。口を開けば本心なのか分からない事しか言えなかった。
それでも頭で考えるよりも先に、心と身体に導かれて行動していた。アドレナリンのせいで痛覚は麻痺し、傷が開いた手の甲はやけに遠くに見えた。割れるような頭痛を振り払うための打撲が多くなった。
作る音楽の中にしか本心が宿らなくなっていった。「言えない人が言えてたら」という歌の詞を五十分弱で書き上げた日があった。

また毎日のように新宿でよくない酒を煽っていた。自分が窒息している事にさえ気付かなかった。不味くつまらない癖になぜか飲んでいた。
街ではくだらない人間と付き合って、くだらない人間になったと思った。それもいいと思った。
自分の人生から段々と臨場感が無くなるのを感じていた。それでも足を止めたくはなかった。絶望が闘志を飲み込んでしまいそうで、それは許せなかった。
 

春が来る頃に熊本で一本の公演があった。
同時間、近いエリアで幾つものアーティストが演奏し、リスナーは好きなステージが観れる。バイキング形式の「サーキット」と呼ばれるライブイベントだった。ここ最近の音楽シーンにはよくある形態らしく様々な土地で行われている。
 
僕らの出演と同時間にも様々なアーティストが演奏する事が決まっていた。初めての熊本でリスナーを集める事は困難だと思っていた。わざわざ飛行機でガラガラのフロアに向かって歌いに行くのかと思うと気が重かった。自分の心が集中しているのか拡散しているのかよく分からない奇妙な感覚だった。
 
いざ当日ステージに立つと気持ちが折れかけた。二百人程入るスペースに十人程しかいなかったのだ。そんな客入りで演奏するのは久しぶりだった。しかも日本の端っこの熊本県だ。
胃が収縮するような倦怠感が全身を包み込みそうになった時、ふと客席を見ると僕の目を引く顔があった。普段近畿、中部のライブに来てくれているファンだった。初めてライブハウスに来た中学生のように目を輝かせステージが開けるのを待っていた。
 
驚いた。
 
本土ならいざ知らず、熊本に来てくれている。年間に百本もやっているのだからいつでも観れる。こんなところまで自分の音楽を聴きに遠出してくれる人がいる事に驚きを隠せなかった。その映像は一瞬網膜に焼きついただけだった。それでも相次ぐ苦しさに気持ちが切れかけていた自分の情けなさと心細さに温かく流れ込んだ。余分な感情が溶け出す感覚を覚えた。たった一人の存在のありがたさに胸が熱くなった。
 
好きなもので何かを成した証が欲しかった。
大手に所属する事で手に入るものもあった。
 
だがそんな事が増えすぎて一番大切なものが見えなくなっていた自分の愚かさを知った。気付くとライブは始まっていた。オーディエンスは十人程度しかいない。でもその十人にとって少しでも意味あるものを残したかった。
 
一曲歌う度にオーディエンスが増えている気がした。もう一曲歌うとフロアの半分が埋まっているように見えた。実際に増えていた。
休んでいる客に様子が伺えるように、TVモニターが設置されライブは永続的に中継されている。それを観て来たのかは分からないが、他のステージから三角州の激流のように人が流れてきていた。
 
ライブの最後には二百人のフロアに規制がかかる程の満員になっていた。
植物のように無感覚だった神経が、乾燥した冬の感電のように過敏になっていくのを感じた。「しびれるライブだった」という高校生の頃に読んだ雑誌に載っていたカナダのミュージシャンのコメントを思い出した。
 
嬉しかった。
喜びで世の中が明るくなったように見えた。自分の心が身体を通して、知らない街の人の心に突き刺さった。その二百人のフロアは今まで見たどんなステージよりも輝いて見えた。そしてそれは最初に居てくれた十人がいなければ、決して作られるものではなかった。日本の端である熊本という街で東京では学べない大きな事を教わった。
 
 
それから数日後、レコード会社を離れる事が決まった。円満にだ。ただ自分が歌を届けたい対象が明確に分かったおかげでかかっていた靄が晴れたように思えた今、必要性を感じなかった。
 
当然大きいステージやトップチャートを目指している。それとは矛盾するかもしれない。でも僕の音楽は誰にでも届けば良いわけじゃないと気付いた。
 
流行り廃りを超えて一番大切だと思ってくれる人が一万人が集まった風景を見たい。そんな事を忘れない為に歌を作った。
 

 

COME TOGETHER

COME TOGETHER

 

 

失くす事から目を背けない為に作った曲の事

お題「マイルール」

 

大切なものを失う。という感覚を最初に知るのはいつだろうか。幼児の頃だろうか。それとももう少し成長した頃だろうか。思い出す事ができる者は稀だと思う。

 

 

海馬を掘り返すように記憶を探ってみると、鮮明に覚えている一日がある。小学一年の頃だ。飼っていたジャンガリアンハムスターが老衰で死んだ。

僕の住んでいた町は両親の実家と離れていた。さらに複合家族ではない家に育った僕にとって、祖父や祖母の死、仏壇などは身近な存在とは言えなかった。そんな僕にとって最初の命の消失を教えてくれたのは小さなペットだった。

この前まで所狭しと走り回っていたペットはある朝、全く動かずに横たわっていた。材木のように取り扱い易くなったその体は、昨日まで生命が宿っていたとは信じ難い程だった。

ただただ悲しかった。その独特の神経を握り込まれているような胸の痛みは今も覚えている。そして脈々と波打っていた生命が終了した現実を象徴するかのような横たわる小動物はひたすらに痛ましかった。

 

僕は幼い頃から大人に従順な子供ではなかった。もっと言えば大人に対し、侮りに近い感情を抱きながら毎日を垂れ流していた子供だった。その考えからかペットを失った悲しみを伝える事はしなかった。

この心の痛みは打算や面子で生きる親や教師に理解はできまいと決めつけていた。

 

その次の年だった。

遠く離れた場所で父方の祖父が息を引き取った。癌による病死の数え年は七十七だった。

前述した通り身近とは言えなかった祖父の死はどこかピンと来なかった。会った事も数度であったし、悲しもうにも悲しみようがなかった事を覚えている。

 

葬儀の日がやってきた。

まだ出来たばかりの明石海峡大橋を渡り、淡路島を越えていく。この半年後に震源地になるとは露知らず神戸の海は穏やかだった。

 

僕にとって人生で経験する初めての葬儀となった。

出席者達の身を包んでいた黒服が印象的だったが、葬式と言えばもっと厳粛なものかと思っていた。式が始まるまで大人達は祖父の生前の話を肴に、楽しそうに酒を酌み交わしていた。意外にも笑顔が飛び交い、特別消沈もしていない雰囲気は不謹慎にも見えた。

その光景を見てやはり大人は打算や面子で生きている薄情者だと思った。命の消失に寄せる灰暗い虚無感という感性を持つ自分とは違うと軽蔑した。繊細さは年齢と共に失われるのだと感じていた。

 

暫くして式が始まった。

経が読まれ木魚の音が大部屋にルーズに鳴り響いていた。話に聞いた事はあるが当然初めて見る儀式だった。だが特別興味をそそられる事も無く、一刻も早く帰りたい気持ちが大きくなっていた。

退屈によそ見ばかりしていただろうか。ふと横を見ると父親が泣いていた。父の涙を初めて見た。

釣られたか否か分からないが、気付けば他の大人達も泣いていた。大勢の大人が集まり泣いているという光景は衝撃だった。噛み締めるような嗚咽を上げる彼らに動揺した。そんな僕を置いてけぼりにするかのように式は進行した。

祖父を極楽浄土に誘う経は後半を迎えつつあった。ふすまから差し込む傾いた陽が綺麗だった。その日の全てを悼むように燃えていた。

 

帰りの車の中、ボンヤリと考えていた。

 

「大人はそう易々と悲しみを顔に出せないのかな」

 

冷徹、諦観主義、無感情、守銭奴。そんなイメージばかりだった。

しかし大人には大人の事情があって、泣きたくてもそう簡単に泣く事が出来ないのかもしれない。そう思うと大人が何となく仲間になったような気がした。

訪れる悲しみに彼らも納得をしているわけではない。だが後ろばかりを見ているわけにもいかない。僕は自分という小さな存在が、その営みの中で生かされている事を感覚的に知った。

 

それから十年後に僕は両親と暮らす事と住んでいた町を失う事になる。

様々な事情で実家に住めなくなり、大阪で一人で暮らさなくてはいけなくなった。この急遽訪れた両親や地元との離別は改めて「失くす」という出来事の無情さを思い知った。だが泣いているばかりでは生きてはいけない。

 

今僕が兼ね備えているもの全てに永遠は無い。

歌を作る事を延々と続けてきているが、いつ何時この能力を永遠に失うかは誰にも分からない。そして信じているものが側から離れていく事は今までも無数にあった。その度に心の強度が増せば良いのだが、そんな事はまるで無く、つらい事件に幾度となく僕は砕かれた。

 

もう人間をしばらくやっている。

段々と掴めるものが幾つも無い事が分かってきてしまった。あれもこれも手に入れる事は出来ない。

だが無情にもたった一つの事ですら抱きしめていくには生半可じゃない努力がいる。そしてそれすらも力及ばず運及ばず、手から滑り落ちる事がある。

しかし「いつか消えるから信じるのをやめる」「いつか失くすから護るのをやめる」という理屈に感情が導かれた事は一度もない。人は必ず失ってしまう。それを大人達は知っていた。それでも日々懸命に失くならないように足を前に運び、手は何かを掴もうとしていた。

 

僕も大人になった。 あの日泣きたくても簡単に泣かずに生きていた大人達になれただろうか。少しでも近づきたくて歌を作った。

 

【それでも弾こうテレキャスター Track-3】大切なお知らせ | QOOLAND 歌詞

 

それでも弾こうテレキャスター

それでも弾こうテレキャスター

 

 

護られている事を忘れない為に作った曲の事

頭上の雲まで茜色に染まったかと思うと、次の瞬間には夏の夕闇がにわかに濃く迫ってくる。そんな表現がよくよく似合う、時間の流れがやけに早い一日だった。もう二十年以上前の事だ。

 
 
人生には数多くの節目がある。
その中でも幼児から小学生になるタイミングは誰の身にとっても指折りの節目なのではないだろうか。
六つも上の人間が先輩として君臨し、勉強や運動で競争を強いられるようになる。温室でぬくぬく育ったそれまでの社会と比べると圧倒的大人の社会であり、厳しくも自分の可能性を試す世界だ。
そして目に映る一つ一つに感動を禁じ得ないほどには、幼すぎる多感な時期でもある。
 
入学したばかりだった僕の目にはあらゆるものが新鮮に見えた。
街路樹の木々は背丈よりも遥かに高くそびえ立つ塔のようで、落日に彩られ光を呼吸するように赤く燃える雲はオーロラよりも美しかった。
 
日々は重ねるのに大人になった今よりも時間がかかり、一日一日が長く感じた。だが確実に少しずつ進んでいき、人生初の夏休みが間近に迫ったある日の事だった。
 
知らない町に足を運んでみようと思った。
 
知らない町と言っても自宅のある六丁目から、四丁目に行くというだけの話だ。距離にすれば三キロもない。
それでも僕にとっては初めての冒険であり、一人きりで振り絞ったちっぽけな勇気だった。両親に手をつながれて、遠出するのとは全く別次元の興奮に胸の奥がきゅっとするのを感じていた。
通りの先に何があるのか。もっと素晴らしい世界が広がっているんじゃないか。
その期待から衝動を我慢せずに僕は家を飛び出した。
 
その日は土曜日だった。
学校は午前中で終わり、午後二時過ぎに家を出た。知らない道をどんどん進んでいった。
空は青く、地面はどこまでも繋がっていて、世界の果てまで到達しそうだった。焦る気持ちからか、赤信号で足が止まる度に一秒は十秒にも感じられた。
 
大通りを跨ぎ、区画を越えていく。
立ち並ぶ家の様相は別の国に来たんじゃないかと思える程に一変した。坂道が見えてくる。その大人にとってすれば、軽い傾斜だ。それでも僕にとっては最大の難所であり、永遠とも思える急勾配だった。
 
初めて見る一つ一つの風景に感動していた。
言葉にすると消えてしまいそうな淡い感動を胸にしまって、足の赴くまま世界の果てを目指した。
しかし一方で陽射しは宵闇に追われ、次第に周辺は濃紺へと変わろうとしていた。
 
空が暗くなるにつれ、僕の心にも得体の知れない暗いものが広がっていった。そのぐらつく椅子に座っているような心許なさは、徐々に足取りを重たくした。
うすうす勘づいていたが、怖くて気付かないふりをしていた。ようやく観念して、辺りを見回した。見た事もない風景が広がっていた。もはや自分が何処まで歩いたのかも、何処にいるのかも分からなかった。
 
とんでもない事をしてしまった気がした。
このまま二度と家には帰れないような恐怖感を感じながら、帰り道を目指した。だが前方を大きく包み込む暗闇は膨張する宇宙を思わせ、不安と寂しさからその場にへたり込んでしまいそうだった。
上空に浮かぶ月や一番星を頼りに歩く漫画の知識は、何の役にも立たなかった。理不尽にも僕がそんな主人公や作者を呪った頃、時刻は夜の六時を過ぎていた。鳥の声が不気味に町に鳴り響いた。
 
棒と化した足を使い、ただただ勘を頼りに家路を目指した。帰路の検討はつかず、家を出た時には世界の果てまで繋がっていたはずの歩道は、僕の家にだけは繋がっていないのではないかとさえ思えた。心は不安に押し潰され、泣きながら誰一人存在しない暗闇を歩いていた。
 

そんな時だった。前方に人影が見えた。僕を呼ぶ声が聞こえた。母親だった。
 
 
人生史上最大の生命の危機を感じていた僕とは対照的に母の反応は気楽なものだった。夕飯の仕度が出来たのに、いつまでも僕が帰ってこないので近所で遊んでいると思ったらしい。そこでちょっとその辺まで探しにきた程度の事だった。
 
しかし、母親に見つけてもらった安堵から僕はわんわんと泣いた。初めて味わった孤独と、そこから救出された安堵感はあっさりと感情を決壊させた。
あの遠い路を駆け通してきた心細さを思うと、いくら泣いても足りない気持ちに迫られながら泣いていた。
 
それにしても人間の心というものは現金なもので、それは子供でも例外がないらしい。先程まで真っ暗闇に見えた世界が急に明るく見えてきた。
情けない話だが暗いといっても街灯は幾つも灯っているし、立ち並ぶ家の窓からは明かりが無数に漏れ出していた。
恐怖にかられれば柳の木でさえ幽霊に見えるとはよく言ったものだ。落ち着いて見上げた神戸の空の夕方は、目をつぶっていても心に届いてきてしまいそうな美しさを放っていた。
その風景と共に冒険の高鳴りと孤独への不安、そして自分を護る存在の安堵感を一度に浴びた一日を終えた。
 

この話は未だに不思議な事がある。
僕が彷徨っていた場所まで母が真っ直ぐたどり着いた事だ。
本人に聞くと「なんとなく」というあまりありがたくない解答が頂けた。だが僕の中で母親、ひいては女の人の持つ愛情というエネルギーの強力さを実感したエピソードだった。
 
 
それからも僕は人生の窮地で女の人の持つ独特の不思議な力によくよく護られてきたし、腕力などではない強さに生命そのものを救われてきた。
今これを読まれている皆様にも自覚があるやも知れないが、我々男というのはほとほと馬鹿な生き物である。子供の頃から女の子の方が考えも大人である事が多いし、どうやら反抗期も圧倒的に男の方が多いらしい。
さらに付け加えれば大人になってからもその過ちを繰り返す。
 
僕も注がれる愛情に慣れ、感謝を忘れる失態は日常茶飯事だった。当たり前にそこにあるものと勘違いし、勝手を犯す事が幾つもあったように思える。
 
正直生まれてきてから気兼ねなく勝手をやってきた。しかし自分一人では不可能だった。立てているステージを作っているのはそこに立っている人だけではない。そんな事を忘れない為に作った歌をアルバムの最後に添えた。

 

COME TOGETHER

COME TOGETHER

 

 

道に座り込んでいた事を忘れない為に作った曲の事

今週のお題「好きな街」

 

貧乏だった。とてつもなく貧乏だった。

 

僕の生まれ育った街は神戸市営地下鉄の最果てにある「西神中央」という。ニュータウンを気取った田舎だ。

コンビニが出来たのは十七歳の時で、ビデオレンタルショップが出来たのは十八歳の時だった。二〇一六年現在未だにコンビニは二十四時間営業ではない。理由としては不良の溜まり場になるという、臭い物にひたすらフタをする排他的なものらしい。これもうわさ話で恐縮だが、狭い地域にありがちな短絡的な権力者がいたと後々聞いている。

 

僕はこの街で悠々自適に親の庇護のもと、高校三年生まで過ごしていた。十八年も生きていれば些細なトラブルはあったが逆に言えば大きなトラブルはなかった。

街に住む人達は殺人はしないが、イジメはするような気取った小金持ちが大多数だった。村八分があちこちに散乱していた。その親に育てられた子供が形成される学校の色もそんな色だった。

矢吹丈やリアムギャラガーをはじめとするアナーキーなヒーローに憧れていた僕にとって、フィクションの脇役のような性質を持つ地元の人達は好きではなかったが、大きくモメる事もなくそれなりに上手くやっていた。そんな僕の特別楽しくもないが、平穏で保障された暮らしはある日脆くも崩れさった。

 

その夜は自室でTVを見ていた。ブラウン管の中では駆け出しのお笑い芸人が大物司会者に気に入られようと、目をギラギラさせていた。

そんな時乾いた音のノックが聞こえた。鍵も備えていない無防備なドアが音を立てたのは久しぶりだった。

「話がある」

父だ。親子間で言葉を交わすのに丁寧すぎる宣告に背筋と部屋の空気が張り付いた。

からこういう空気は大の苦手だった。この空気が流れて人類史上ポジティブな話になった試しが無い。

「なに?」

平静を装ったが、自分自身の口から放たれた声のトーンは普段よりやけに高く聴こえた。

「この家無くなるから何とかしなさい」

想像の斜め上。いや、その更に上を行かれた気分だった。

「いやいやいや、困る!急に言われても困るっつーの」

慌てふためく僕を裏腹に

「まぁもう決まったから1人で暮らしてもらう」

大雑把に父は言っていた。脳内に変な音が鳴っていたようで父の声はよく聞こえていなかった。

 

未だに詳しく知らないのだが、諸々の仕事の事情らしく両親は僕を置いて神戸、ひいては関西圏を離れる事になった。

 

平穏という形の無いものは変わらない一日一日の連続が積み重なり作られる。だが積み上げられた平穏をなぎ倒すのは意外に容易らしい。そびえ立った積み木細工の下段を一気に抜くように僕の平穏は十八年で崩れさった。

 

四月。僕は阪急線の十三という街にいた。大阪には変わった読み方の駅が多いが、此処も多分に漏れずに『じゅうそう』と読む。関東圏の人はまず読めないだろうと思う。

 大阪の心臓部である梅田駅の隣りである事や地元である神戸に直通出来る事、その割に家賃が安く進学先からも五駅ほどだった。よく駅の下見もせずに一人で暮らす城として決定した。今思うと安易だった。

 

この街には僕が今まで酸素や水のように無限に有ると思っていた『治安』というものが存在しなかった。代わりに往来での取っ組み合い、恐喝、盗み、器物損壊などが酸素や水のように豊富にあった。それまで十八年間ぬるま湯にいた僕からすると悪の華が咲き乱れる修羅場そのものだった。

ついでに道端で暮らす人間を見たのも初めての経験だった。その道で腕ずくで財布を盗られそうになったのも初めてだった。あんなに嫌っていた地元に帰りたかった。

 

春先は学校に友人も殆どおらず、とても寂しかった。狭いワンルームの部屋で聴いてくれる人のいない曲を毎日作っていた。たまに高校の頃の音楽仲間が来るぐらいだった。そんな基本的にはあまり明るく楽しくない新生活は少しずつ滑りだしていった。

 

セミは鳴いていないが、薄着をしても体調の心配をする必要もない。そんな気候になりはじめた頃。仲間達とバンド活動をする事になった。音楽活動は本当に楽しかった。友達に紹介されたドラマーがメンバーにいたのだが、本当に上手だった。

僕が高校生の時に一緒にやっていたメンバーとは雲泥の差だった。作った曲を上手なメンバーと爆音でプレイできる喜びが生き甲斐だった。その快感を頼りに身体を引きずって生きていた。

 

一人の暮らしは貧乏だった。

アルバイトの面接に幾度と無く落ち、辿り着いた職はピンクチラシを無差別に投函するという不名誉なものだった。貰える賃金は少なく、僕が生きていく事を前提に算出すると大きく足りなかった。まるで火星までの燃料で木星を目指しているようなものだった。

 

その日も地図を見てはアパートからアパートへと歩いていた。どういう基準かピンクチラシの配布先に指定があるのが面倒だった。

かつて人気があった事があるのだろうかと、疑いたくなるような裏道に足を踏み入れていた。建物の隙間から吹きこむ風が手に持っていた商売道具をパタパタと叩くのがうっとおしかった。チラシの音以外に聞こえるのは遠くで鳴る踏切音だけだった。嫌な静けさがこぼれ出しそうな通りだった。その最奥地にようやく目的のアパートを見つけた。

 

ポストへと歩を進め、投函していった。品の無いデザインに、品の無い内容が書かれた紙は、無機質な銀色の箱に一枚ずつ吸い込まれていった。そんな時だった。

 

「おい。勝手に何してる!」

 

横から急に怒鳴られたので心臓が跳ね上った。音のしない空間にいきなり飛び込んできた大声は僕に対する敵意に満ちていた。そちらを向くとアパートの管理人と思しき初老の男が立っていた。「睨みつける」という動詞がふさわしい眼光だった。

 

「ーーいや、チラシを………」

「何しとんねん!誰に許可もろてやっとんじゃ! 警察呼ぶぞ!」

 

自分がどれぐらい悪い事をしているのか認識出来なかった僕は何も言わずに駆け出した。反対の出口から通りへ飛び出した。

「おい!待てコラ!」

後ろから怒号が聴こえたが、振り切るように走った。走りながら心の中に苦いものが広がっていくのが分かり、気持ち悪くなった。通りの出口にたどり着いた時には息が出来なかった。全力疾走のせいだけではないように思えた。

金銭だけじゃなく、僕を形作ってきた色々な要素が失われていくのを感じていた。自分の体から悪の華の香りがした。

 

それからと言うもの場所や諸々、配布する際に決められたルールはあったのだが、次第に適当に数を誤魔化していた。自由出勤と違法の線上にあったポスティング業にモラルも忠誠心も無かった。何より僕はもうあの急降下して息が出来なくなるような不快感を味わいたくなかった。

 

バンド練習は町の安い貸しスタジオを使っていた。音も劣悪で設備も良くはなかった。あまり手入れがされていないマイクやスピーカーは、いつもキンキンとハウリングを起こしていた。

その日も気付けば練習というにはあまりに不真面目であり、遊びというにはあまりにも本格的な二時間が終わった。

 

「おつかれー」

「また来週」

 

待合室にメンバー達の声が行き交い、相場よりは安く、僕の預金には確実に痛恨である料金を支払いスタジオを出た。

帰り道はもう六月だというのに妙に薄暗かった。夜道に人の気配もしない。虫の羽音が街灯に巻き込まれ、その度に気味の悪い音が妙に響いていた。

 

下を向き歩いていた一瞬だった。

ワゴン車に引きずられたのかと錯覚するようなスピードで後ろから肩を掴まれた。そのまま一気にコンクリートに叩きつけられた。速く重たいストンピングが熱帯のスコールのように降り注ぎ、焼けるような痛みが襲ってきた。自分の身に何が起きたか分からなかった。

 

チラシの元締めの男だった。

配られた数が合わない事に気付いた男は怒り狂い、僕が一人のところを奇襲したのだった。男は僕を死ぬ直前まで殴りつけた。身長百九十センチを超える大男の拳の痛みと、めくれていない皮膚がめくれ、焦げはじめるかのような恐怖感に全身の自由が奪われた。

ボロボロになった僕に男は現金を要求し、二つ返事で預金の大半を吐き出す事になった。風前の灯火を続けていた残高は、動脈を破ったかのように引き落とされた。

大した額じゃない事実は心を安堵させたが、自分の命の価格と思うと情けなくて涙が出た。そして何故ここまで失うのかと悲しくなった。たった三ヶ月で人間の暮らしがこうまで変わっていくのかと信仰もしていない神を今さら呪った。

 

本当に平穏というものは一瞬で崩壊するものであっという間に人生史上最悪の貧乏生活が始まった。

アルバイトを失い、預金まで奪われたダメージはしっかりと身体と心を蝕んだ。自分の人生に歴史があるとすれば、この時期はありとあらゆる最下位を更新し続けていた。

なけなしの五百円は空腹を満たせない野菜には使えなかった。天秤に栄養と満腹感をかけた時、栄養を選択できる程賢くはなく、なるべく米を買う日々が続いた。野菜はヨモギを摘んで代用した。

夏の後半にはついに夜の路上で倒れた。栄養失調だった。ただれた消費者金融の看板と三日月が十三の夜に燦々と輝いていた。

 

心は泣くとその分歌うとはよく言ったもので、その頃はよくストリートライブをしていた。現在は綺麗に整備された十三の東口だが、当時は妙に雑多で警察の注意も一切無かった。

深夜の歓楽街特有の曖昧な灯が好きで、日付けが変わる頃から四時間ぐらい東口で歌うのが日課になっていた。

「失うものも無いし貧乏な自分にはお似合いだ」と半ば自棄になって始めた活動ではあったが僕の音楽人生において大切なターニングポイントになった。

 

道にあぐらをかいて道行く人に歌うなど気取ったあのニュータウンに住んでいた頃の自分からは想像もつかない絵面だった。だが妙にしっくり来た。それまで嫌いだった汚く野蛮な十三と、そこに住む人々が好きになっていったのはこの路上ライブがキッカケだった。


世の中には立ち上がった時の目線、歩いている時の速度では認識できないものが数多くある事を知った。

何故か座り込むと「目を凝らす」という動作が自然にできる。不思議と空を見上げる回数も多くなった。数分前には目に映らなかった小さな星が数え切れない程瞬いていた。

 

街には人がいて確実に回転していた。その忙しく高速に能動するものの本質は歩きながらでは到底見えなかった。

僕は未だに地方の知らない街に行くと、座ってその街と道を行く人々を見る。目を凝らさないと本質や美点まで辿り着けないものは山ほどある。この世には分かりやすくなくても良いものが沢山ある。

 

道で歌い続けた。

座り込み、街よりも遥かに低い視点で街を見つめながら歌った。最初はただ夜に向かって声をぶつけていただけだった。だが次第に街は僕を認識した。

道行く酔っ払いは千円札と一万円札をギターケースに放り込んだ。

ビザ切れのアジア人の女には五日続けて食事を奢ってもらった。

ギターを貸したニューハーフは僕の曲を僕より上手く弾いた。


「おー兄ちゃん。またやってんなー」


と言われるのが嬉しかった。

自分が作る歌にどうしても書かざるを得ないようなものが宿っていくのを感じていた。一人で暮らしてから音楽がますます好きになっていた。

 

それからも奪われた事もあったし騙された事もあった。傷の上に傷が重なっていくような理不尽も浴びた。

でも毎日は苦しかったが「その街に降り立たなければ良かった」と思った事は一度もない。何かを歌いながら泣いて笑って死にたいと思った。

人間を長くやっていると物事が見えなくなる時がある。そんな時、膝を抱え地面に座り込んでいたあの日を思い出す。だからたまに目を凝らすために座り込むようにしている。

 

これは続いている。紛れもなく続いていると確信するために歌にしている。

http://petitlyrics.com/lyrics/1038243

 

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上京に失敗した事を忘れない為に作った曲の事

今週のお題「好きな街」

 

東京に出て来て音楽をやらせてもらって五年になる。上京前は大阪で四年程度やっていたので気付くともう人生の半数を音楽に使っている事になる。
「上京し音楽をやる」
文字にすればたかだか八文字だが当時はそう簡単なものではなかった。好きや嫌いで語れる程シンプルな感情を抱いていないが僕にとって重要すぎる街、東京に来た時の事を思い出してみる。
 
二十一歳になる四月の事だった。
学内は大学受験という鎖から解き放たれて浮かれる者もいれば、次なる一年に思いを馳せる者もいた。そしてとうとう将来と目を合わせていかなくてはいけない年齢の者もいた。
満開の桜の木に似つかわしくない肌寒い四月の風に肩を縮めながら僕は友人と下を向いて歩いていた。
このキャンパスの地面を踏みしめてもう三年目になる。
 
 「どうする?就活」
 
 今まで何も考えず二人で遊んでいた山田君が初めて口にした単語だった。
 
僕はちょうど音楽をやってしばらく経っていた頃だった。アルバムを二枚リリースし実費だったがツアーも行っていた。そして何事もなくそのまま音楽をやっていくような気がしていた。ずいぶん頭のあったかい二十一歳だったと思う。
 
 「うーん。まだ特に何も考えてない」
 
 その時はそう答えたが自分の心の底にしこりのような物が陣取っているような感覚がしばし拭えなかった。無意識ながらも大人になる自覚というものがあったのかもしれない。
 
寝ても覚めても拭えない感覚と数え切れない溜め息を止めるために僕はバンドメンバーに卒業したらどうするのかと聞く事にした。週に一度だけだった練習の後に口ぶり重たく持ち上がった話題だった。
同学年であるメンバー達も無視できない問題だったようで、長い議論となった。そしてその結果は「上京」だった。
「東京に行って一旗あげよう」
そんな大層なお題目ではなかったのだが何も考えていなかった僕にとって進路が決まった事は大きかった。航海中の船だった自分の壊れていた羅針盤の針が修復し進みだしたようだった。
しかし事態はそうそう上手くは転ばなかった。 
 
その二年後、いよいよ上京するという準備が整った頃にはリハーサルに来ないメンバーや資金繰りがうまくいかないというメンバーが出てきた。
 ロックバンドを潤沢に活動させるのはとても難しい。
 よくよく演奏力や歌唱力によるミックスアップが素晴らしい事を指して「この四人でなくてはダメ」「この四人が揃った事が奇跡」などという美談があるが、そのグレードに辿り着くまでには幾つもの障壁がある。
単純にバンド活動は楽器を持っていない時間の方が圧倒的に長く、その音楽以外の部分のクオリティが保てず壊れるバンドは無数にいる。そして僕がいた環境は紛れも無くそうだった。

 

内的な環境は整わずに酷くなる一方だった。二月の曇天が広がるある日
「メンバーを一名を切って上京しよう」という話が持ち上がった。リハーサルにも来ない人間と上京してまで音楽をやる必要もないという至極全うな理由だったが、この案は実行には移されなかった。
当人が「いや、自分も行く」と言いだしたのだった。そしてそれまでも有耶無耶に過ごしていた僕にそれをとめる資格はなかった。この手の話は道徳を持ち出すと随分複雑になるが、僕の中でも「人を見限る」という行為の後ろめたさは決して軽いものではなかった。
もしかしたら有耶無耶の持つぬるま湯の水温が心地良かったのかもしれない。四人で行く事になった僕らはネガティブな話をテーブルに上げるだけ上げて、宙ぶらりんのまま出航する事になった。

 

卒業のタイミングは僕らの現状をあざ笑うかのようにやってきた。学内にいても僕は周囲の重力を請け負ったかのように一人で重たい空気を纏っていて目障りだったと思う。
二年前と違い桜は視界に入らず、肌寒いだけの風に耐えながら物事の終わりをじっと待っていた。
 
三月に入り夜行バスの予約を取った。
 
当時はそこまで夜行バスが安くなく、四千百円もかかった。東京に足を運んだ事は幾度となくあったが片道だけの切符を購入したのは初めてだった。「帰れない」という現実が切っ先となり眉間に突きつけられているようで目眩がした。
 
アコースティックギターを抱えてバスで東京に向かった。引っ越しの荷物量を減らしたかったからだ。ギターは狭い座席をさらに狭くした。
遮光カーテンを閉め切ってとにかく眠った。眠ってしまいたかった。先行きや希望は見えなかった。過去は輝き未来は圧倒的に黒に染まっていた。

 

疑ったままの歌を手に東京にやってきたら春だった。

こんなにも春という季節を疎ましく思ったのは初めてだった。四月を闊歩する新入生や新学年という生き物を見る度に激しい焦燥にかられた。同様にバンドの環境も自分自身ももうどうすればいいか分からないレベルまで来ていた。そして自分は一人で寂しく誰も買わない歌を作っていればいいとさえ本気で思っていた。いや、思おうとしていた。仲間や未来が欲しかった。

 
上京して半年。メンバーの音楽以外のトラブルでバンドはあっさりと崩壊した。
 
東京のアルバイトの時給は大阪とは比べ物にならず、生活には全く困らなかった。それにも関わらず心は限界だった。
崩壊した事はどうでもよかったがそれでも自分の生き様や現状を思うと恥ずかしく穴が無くても何処かに入りたかった。得体のしれない後ろめたさが迫ってきていた。陰鬱な気分を追い払うように延々と自宅で歌を作っていた。歌う場所が無いのに心はどうしようもなく歌っていた。木造住宅の窓から差し込む光は浴びていると人生のツケが照らし出されそうで死にたくなった。
 
梅田を思い出していた。
今の梅田は新宿顔負けのメガステーションとなり西日本最大規模の摩天楼があるが、当時は工事が多く、まだ地方都市の様相が見られた。
そんな梅田の隣り駅に暮らしていた僕にとって
新宿の高層ビルや渋谷のスクランブル交差点は強い憧れの対象だった。
新宿特有の天空まで突き刺さる銀色のビルや、幾つかの巨大スクリーンから流れる音楽がぶつかり合い、街全体が叫んでいるような渋谷の喧騒に触れる事で何者かになれるような気がしていた。
 
 
その中の一角である住友ビルでアルバイトをしていた。働いてみても一時間に千三百円が貰えるだけだった。増えも減りもしない残高を見ても先々の不安が消える事は全く無かった。
具体的に削られているものは無いのに自分の中の何かが確実に減っていく自覚があった。その耐え難い苛立ちはいつしか虚無に変わってしまいそうだった。気付いた時には自己紹介をしても自分を表す相応しい言葉が一つもない人間になっていた。

日々を灰のように撒いていた。貴重な時間がどんどん減っていく事が分かった。
身が焼かれているように辛かった。窒息した器官を呼び戻す居場所が欲しかった。
 
そんな本当にどうしようも無い時に東京で人と出会った。
割合するがどうやらその人も困っていて僕はその人と音楽をやる事になった。
するとまた別の困った人と出会い、またその人ともやる事になった。そしてその日々は今日まで続いている。今の日々は東京が与えてくれた。

 

そんな事を歌にした。忘れたくもないので。